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パラドックス的人生

報告:第239回(16-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会 上林明

演題:「パラドックス的人生」
講師:上林明(新潟市)
日時:平成28年1月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4401

講演要約

 私は昭和19年(1943年)に、今の山形県鶴岡市の個数僅か48軒の小さな漁村に視覚障害をもって生まれた。親は、生後1か月を待たずに新潟大学病院眼科まで出かけ、熊谷教授に治療を嘆願したそうだが、当時は病名すら理解していなかった(注:先天性上眼瞼欠損症)。

 昭和24年(1949年)9月、集落の9割を嘗め尽くした大火災が起こった。真夜中なのに真昼のような明るさの炎、逃げ惑う人々の狂気の叫びと、持ち出した家財の投下。漁村なるが故の船舶用燃料用ドラム缶の破裂による大音響と空高く燃え上がる火柱と炎熱地獄。5歳にして命の危機を体験した。

 火事は、それはそれは恐ろしかったが、本当の苦しみはその日以降から始まった。復興をめぐって、陰湿で封建制と差別に満ちた障碍者を理由とした不当不公平な差別と嫌がらせを受けた。宅地の配分でも、村を不幸に陥れる片端もの(しょうがいしゃ)には人と人並みの土地はやれないとの仕打ちを受けた。

 母は連日のように「私がお前のような障害時を生まなかったなら、こんな不幸には遭わなかった」と5歳の私に向かってなげき、時には号泣していた。そんなことを何回も聞いているうちに、「死のう」と思って、夜中にこっそり家を出て海に入り沖に向かって歩いた。そこに、祖父が海にいる私を見つけて海に飛び込み、「馬鹿野郎」と言ってぶん殴り、そして抱きかかえてくれた。5歳ではあったが、私の家族と私に襲い掛かってくる数々の難問と差別に押し潰されそうな人生の始まりであった。

 祖父は懸命に私を諭してくれた。「負けるな、一つ頭抜けた人間となって見返してやれ」と。この被災が、それからの私の生き方に大きな示唆と生きる力を与えてくれたと思っている。

 教育が大事だという祖父の勧めもあり、当時にしては珍しく、学齢6歳にして鶴岡の盲学校・その寄宿舎に入った。小学・中学を終え、昭和35年(1960年)新潟盲学校高等部に入学。山形の本校を選ばず新潟を選んだ理由は新大医学部から講師が派遣され理療科を学ぶことができたから。とはいえ、私は勉強する・努力すると言ったことが身に沿わない人間だったようだ。閉鎖的な東北から比較的開放的な新潟へ来て、勉学に励んだのではなく、当時吹き荒れていた60年安保闘争に、障碍者に対する差別偏見と闘うと叫びつつ、どんどん身を委ねて行ったのだった。校内でも、討論集会や学習会を組織し、将来の障碍者としての生き方、古い体質のマッサージ・はり・灸業界と労働条件の改善を話し合う。

 卒業後もそれらの命題を掲げて新しい障碍者運動団体を作り、運動を進めた。生来の音楽好きと、こうした運動とのかかわりから外の合唱団や歌声運動に加わり、校内にも広め、さらにたくさんの晴眼者や団体との連帯が進んだ。障碍者の団結も大事だが、周りの一般社会人との交流連帯によって得たものは大きかったと思う。その結実は、現在「新潟県視覚障碍者友好協議会」として、また「男声合唱団どんぐり」として残り、大きく発展している。

 昭和50年(1975年)私なりに一つのけじめをつけ、次のステップに進むこととなった。職業としての新潟県はり・灸・マッサージ業界の理事・理事長として会館建設と健保取扱いの向上、かつての運動当時に培った新潟水俣病現地診療で得た知識と人のつながりを生かして、この施術の開発と公助制度の確立にまい進。テレビ番組によるこれら施術の普及を進めるために準レギュラーとして出演。また、乞われて福祉医療専門学校非常勤講師として教壇にも立った。むしろ学生から学ぶところは大きかった。

 それらとともに有線やインターネットを通じて開始されたJBS日本福祉放送の番組制作を13年間務めた。そうした中で、「司会者協会」に参加してイベントや舞台の司会業も側として行ない、多数の歌手のコンサート司会も担当した。

 詩吟神風流に入門し42年目となり、現在は会長として教室を県内数か所に開設し、地域の生きがいづくりに貢献を図っている。市・県の連盟理事・コンクール審査員。視覚障碍者「あいゆー山の会」に参加し、県内の里山や富士山・立山などに山行。晴眼のパートナーを信じ連帯を尊重しつつ上り行く山は、肉体のみならず精神を鍛えてくれると思う。中越地震被害者救援施術を主催したが、この折にも山の仲間は人と物資輸送・受付などを手助けしてくれ、人間としての連帯感を強く感じることができた。

 多分、私が晴眼者で生まれたら、当時の世相から親の跡を継ぎ漁民か船員に終わったかと思われる。目が見えず、差別偏見を受けなかったらこの愉快な人生は得られなかったと思う。今日の境遇や多数の人との愛に満ちた連帯に感謝し、残る人生も多数の社会と人と手を携え楽しく愉快な余生を過ごしたいものである。

略歴

1944年 山形県西田川郡加茂町(現鶴岡市)の小さな漁業集落に、視力障害をもって生まれる。
1951年 山形県立鶴岡盲学校小学部入学。
1960年 新潟県立盲学校高等部入学
1963年 按摩・マッサージ・指圧師免許取得
1965年 新潟県立盲学校卒業。鍼師・灸師免許取得。
   同年 柏崎市の植木治療院勤務。
1967年 新潟市山ノ下地区(現在地)に「上林鍼灸マッサージ治療院」開業(2014年閉院)。
1969年 結婚。2児を育て現在それぞれ独立。
1975年 詩吟神風流に入門。現在詩吟神風流越水会会長。雅号「神天」。
      県・市吟詠連盟理事。全吟連新潟県コンクール審査員。
1994年より2年間(社)新潟県鍼灸マッサージ師会理事長。
     視覚障碍者山の会「新潟あいゆー山の会」会員。

後記

 上林さんの壮大な人生を語って頂きました。5歳の時の大火、その後の差別という試練。祖父の励ましと、見返してやるという覚悟。障碍者に対する差別と闘った青年時代。仕事に邁進しながらも新潟県はり・灸・マッサージ業界のリーダーとしての活躍、そしてJBS日本福祉放送の番組制作と司会者としての活躍した壮年時代。詩吟と山の会で活躍中の現在、、、、、。 目が不自由だったからこそのいい人生を送ってこれたという最後の言葉に心打たれました。
 上林さんは、非常に明るく人望があります。幾度の苦難も明るく乗り越えてきた上林さんの、益々の活躍を祈念しております。

パラドックス的人生

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

案内:第239回(16-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会

演題:「パラドックス的人生」
講師:上林明(新潟市)
日時:平成28年1月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4266

抄録

 皆さんは、ご自分の人間としてのもっとも最初の記憶は、何歳くらいのどんな事柄かお思い出すことができるでしょうか?私にとっては、厳密には人生最先端とは言い難いのですが、5歳3か月、1949年9月16日未明に起きた、戸数48軒の集落の内、44軒がほぼ全焼に嘗め尽くされた大火災から、人生が始まったと言っても過言ではありません。

 真夜中なのに真昼のような明るさの炎、逃げ惑う人々の狂気の叫びと持ち出した家財の投下。漁村なるが故の船舶用燃料用ドラム缶の破裂による大音響と空高く燃え上がる火柱と炎熱地獄。それはそれは恐ろしい記憶ですが、本当の苦しみはその日以降に私の家族と私に襲い掛かってくる数々の難問と差別(東北地方の当時の障碍者差別は想像を絶するものがあった)に押し潰されそうな人生の始まりであり、その後の私の生き方に大きな教訓と示唆を与えてくれたものと思っています。

 生来勉強と努力が私に馴染んでくれなかったことで、理想や夢の大半を実現できないままに終盤の人生を迎えているのが実情です。ただ、渡辺和子先生は「置かれた場所で咲きなさい」と説かれましたが、誰かに連れてこられ、置かれた場所で安穏に暮らす視覚障碍者暮らしだけで終わりたくはない。むしろ私の趣味、吟詠の一説に「丈夫は玉砕するも甎全を恥ず」とありますが、晴眼者、障碍者に関わらず、皆でともに発達しあい、喜び悲しみを分かち合いつつ生きて行きたいと念じつつ、それらを実現すべく「リーダーを目指して」をモットーに今日まで明るく楽しく歩んで来たと思っています。
*「丈夫は玉砕するも甎全を恥ず」丈夫玉碎恥甎全(西郷隆盛)~立派な男子は、節義を守って死ぬことであって、つまらぬものとなって安全に生き残ることではない。

略歴

1944年、山形県西田川郡加茂町(現鶴岡市)の小さな漁業集落に、視力障害をもって生まれる。
1951年、山形県立鶴岡盲学校小学部入学。60年県立新潟盲学校高等部入学・65年卒。
1963年、按摩・マッサージ・指圧師免許、65年鍼師・灸師免許取得。同年柏崎市の植木治療院勤務。
1967年、新潟市山ノ下地区(現在地)に「上林鍼灸マッサージ治療院開業。94年より2年間(社)新潟県鍼灸マッサージ師会理事長。
1975年(昭和50年)、詩吟神風流に入門。現在詩吟神風流越水会会長。雅号「神天」県・市吟詠連盟理事。全吟連新潟県コンクール審査員。
 視覚障碍者山の会「新潟あいゆー山の会」会員。

ネット配信

 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力によりネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
 当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業

済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わりに読んで頂けましたら幸いです。

報告:第238回(15-12)済生会新潟第二病院眼科勉強会 田中正四

演題:「フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業~工夫を重ねて子供たちの心をキャッチ~」
講師:田中正四(胎内市)
日時:平成27年12月02日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4249

講演要約

 私の所属する(新発田音声パソコン フィンゲル)は、1996年に寄贈された1台のデスクトップパソコンと五名の視覚障がい者と五名のボランティアスタッフにより音声ワープロ教室としてスタートした。

 翌年には、市内のサマーキャンプ・フェスティバルに参加し、障がい者理解の浸透を目的に学校訪問を精力的に取り組み、同年には、市内の商業高校の文化祭にて、音声パソコンによるデモ実演を成功させるに至った。以来、今日まで地域の小・中学校を主とした学校訪問を(出前授業)と称して継続してきたが、歴史の長さと共に近年では諸問題に直面する事となった。

 今回私の報告は、その歴史と先輩諸氏の努力により築き上げた(出前授業)の変化と、地域独特の活動の困難を乗り越え、さらには、ボランティアスタッフの減少の中で、障がい者自から取り組んだ数々の工夫と改革の一例を紹介するものである。

 その改革は、2012年に永年私達のスタッフとして指導や運営を担っていただいたスタッフの退会により、(出前授業)の依頼の日程調整から、授業内容の決定、メンバーの構成と時間配分にいたるまで、私達障がい者の手で立案し、実践する事となったのである。(出前授業)では、視覚障害の解説や、日常生活の様子、白杖や盲導犬の有効性などが主な内容であるが、小、中学校の子供たちに障害の理解と工夫や努力を伝えるためには、作文を読むような内容では、理解されない。回数を重ね、反省と改善により、毎回の(出前授業)では、アイディアいっぱいの説明が聞かれるようになった。

 私は会社務め時代に学び得た(計画・実行・確認・改善)のサイクルを繰り返す事の重要性を再認識させられた。そんな仲間達の改善例を紹介したい。
 その1)子供達を集中させるために、ゲームやクイズで声を出させ、体を動かして、やわらかな雰囲気を作る。しかし、このゲームやクイズは、答えの中に視覚障害に対する思いや声かけの必要性、又、覚えてほしい事などを織り込むのである。
 その2)家庭生活の様子では、いかに上手に料理ができるかの説明だけではなく、(少しくらい大きさが異なっていても、口の中に入れれば、おんなじ食べ物ヨ。)
と、障害であるために時には、寛容な考え方もしなくてはならない事を理解させる。
 その3)音声パソコンを指導する仲間は、あえて画面をクローズし、音声を聞いて文字を聴きとらせ、簡単な文章を完成させる。必ず2~3人のグループで構成し、数回の予習復讐ができるように工夫を加える。
 その4)白杖、盲導犬の解説では、その有効性に加え、思わぬ危険性やお願い事項を織り込んで説明する。例えば、白杖での歩行時のヒヤリ体験や(盲導犬は、信号
の色が判断できない)などと、安全確保の重要性や意外な事などを紹介するのである。
 その5)視覚障害の説明では、小学校の高学年や中学生には、統計的数字を加えた説明を行い、印象深い説明を心がける事ができた。

 さらに、今年から取り組んだ事として、障害経験の浅い会員にも(出前授業)に参加していただいた。経験の浅い人の苦労話や、失敗談が子供たちに視覚障害をより理解して貰えると考えたのである。もちろん、本人と家族の了解のもと同意を得て、奥様にも同席していただいた。(階段で転倒した事・食事のおかずを全てご飯に乗せてドンブリ飯にした)と失敗や食事の楽しみを失った事を説明し、奥様からは、(階段を腕を組み、数えながら一緒に上った。仕切りのある食器を用意して、時計方向におかずを説明した。)などと家族の工夫を話していただき、私達も初心に帰った思いであったし、子供たちには当事者と、家族や周囲の協力、そして、本人の努力が重要である事を教える事が出来たと考える。

 現在、次年度の目標も検討中である。現在ブラインド体験や、誘導歩行の説明を晴眼者にお願いしているが、説明解説を私達自身で実践したい。又ブラインド折り紙などにより、その困難性やカン・コツをポイントで説明できないもか検討中である。さらには、盲導犬のスーツ・ハーネス等の意味や必要性、加えて補助犬法についても解りやすい解説ができたらと考えている。

 フィンゲルの(出前授業)のカリキュラムは多種であるが、学校や地域の求めに応じてさらに可変的に対応したいものである。今回の私の報告内容は、決してめずらしいものではないが、参加していただいた方や、読んでいただいた皆様の参考になればと願うものです。

略歴

1952年 長岡市(旧越路町)生まれ
1968年 日立制作所入所
2003年 腎不全により透析開始
2007年 視覚障害1級
2007年 日立製作所退社
2010年 盲導犬貸与される

後記

 盲導犬が5頭参加しての勉強会。何よりも、田中さんお話を聞いている時の参加者の楽しそうな笑顔が印象的でした。
 いつも田中さんは、つかみが上手い。今回の講演はこんな小噺から始まりました。「以前、初孫が大きくなったらおじいちゃんの眼を治してあげると言っていたが、今は断念したようだ。そのかわり二人目の孫が、将来は消防士になりたいと言い出した。「消防士になるなら、イッパイ勉強しないといけないよ」と言ったら、『消防士になれなかったら医者になる』と言っています。」
 今回のお話で、障がい者理解の浸透を目的に学校訪問を、自ら工夫を重ねて精力的に取り組んでおられていることを知りました。素晴らしい活動です。応援していきたいと思います。

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科

案内:「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科
日時:2016年1月23日(土) 14時半開場 15時~18時
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
要事前登録

「学問のすすめ」講演会は済生会新潟第二病院眼科で2010年2月より開始した企画です。若い医師とそれを支える指導者に、夢と希望を持って学問そして臨床に励んでもらおうと始めました。
 第10回講演会を予定しました。講師の先生には、若い人へのメッセージを添えて、取り組んでこられた研究テーマを中心に、これまでの学究生活について自叙伝風に語って頂きます。
 どなたでも参加できます。多くの皆様の参加をお待ちしております。

タイムスケジュール

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科
15時〜
座長:長谷部 日(新潟大学医学部眼科)
演題1:「好きこそものの上手なれ;Tell it like it is !」
講師 門之園 一明(横浜市立大学教授)
http://andonoburo.net/on/4223

16時半〜
座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
演題2:「医療における心」
講師:出田 秀尚(出田眼科名誉院長)
http://andonoburo.net/on/4243

19時 終了

事前登録制

参加費は無料ですが、会場準備の都合もあり、事前登録制(締切1月15日)です。参加希望の方は下記の要領で申し込み下さい。

事前登録

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院
 申込期間期限 平成28年01月15日(金)
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗
 e-mail:gankando@sweet.ocn.ne.jp
 Fax:025-233-6220

参加申し込み

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院
  氏名~
  所属(勤務先)~
  職業~
 住所(都道府県名と市町村名のみお願いします)
 連絡方法(可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します)
  e-mail アドレス~
   Fax番号~
****************************************************
注:専門の職員はおりません。電話でのお問い合わせには応じることが出来ません。お問い合わせ等は、メールでお願い致します。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

 福沢諭吉の「学問のすすめ」の一説としてあまりに有名ですが、本当に意味するところは以下の通りです。
 人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。
 人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。

高次脳機能障害と向き合う ~神経心理ピラミッドを用いたホリスティック・アプローチ~

報告:『済生会新潟第二病院眼科公開講座 治療とリハビリ』立神粧子(フェリス)

 眼の愛護デー(10月10日)に、8都府県から眼科医・内科医・神経内科医・リハビリ医・麻酔医やリハビリ関係者・教育者・当事者等々、約60名が参加し、済生会新潟第二病院10階会議室で公開講座「治療とリハビリ」を行いました。
 今回、立神粧子先生(フェリス女学院大学教授)の講演要約を参加者の感想と共に紹介します。

特別講演3:「高次脳機能障害と向き合う~神経心理ピラミッドを用いたホリスティック・アプローチ~」講師:立神粧子(フェリス女学院大学教授)
http://andonoburo.net/on/4141

講演要約

 2001年の秋に重篤なくも膜下出血で倒れた夫はコイル塞栓術、脳室ドレナージ術、V?Pシャント術を受け、命は助かったものの脳損傷(高次脳機能障害)が残存した。2004年の春から1年間、New York大学の「Rusk研究所脳損傷通院プログラム」に通い、日本ではなかなか改善できなかった諸症状が劇的に改善した。Ruskの通院プログラムは認知機能の神経心理ピラミッドを訓練の核として用いる脳損傷者のための機能回復プログラムで、その療法哲学は自己の再構築という目的を持つ全人的なものである。

 脳損傷Brain Injuryは、交通事故や脳卒中等の後遺症による器質性の問題で、主に前頭葉の認知機能不全のことをさす。Rusk脳損傷通院プログラムは「環境を適正に構造化できれば、患者は状況に応じた能力が発揮できる」というGoldstein博士の理念を基盤としている。リハビリ医療は身体的な機能回復ばかりでなく認知機能の回復訓練として、脳損傷者に「安全な実験室」(=訓練の場)を提供し、自己の欠損について理解させ、患者自身が欠損の補填戦略を使ってできるだけスムーズな日常生活を送れるよう実践的に導くことを、訓練の目的としている。

 Ruskでは患者を「訓練生」と呼ぶ。医師から処方された薬をもらう受動的な患者ではなく、訓練を受けて日常で機能するための様々な技術を習得し、自らが人生を切り開く主体的な意識を持たせるためである。Ruskの療法的環境は、訓練生とスタッフを中心に、訓練を修了したピアカウンセラー、そして家族(または重要な知人)で成り立つ。この4者が互いに関係し合いコミュニティを形作り、訓練後の社会を想定した様々な場面に対応するための実験的な研究の場となる。

 訓練所の1週間は月曜日から木曜日まで、毎朝10時から午後3時まで決まったスケジュールで構成されている。Ⅰ.症状を確認する「オリエンテーション」、Ⅱ.人前でのコミュニケーションを学ぶ「対人セッション」、Ⅲ.オーダーメイドの認知訓練と気づきやロールプレイ・確認の技などのワークショップが行われる「認知訓練」、そして、Ⅳ.一日の終わりに質問に答え人の意見を聞く「交流セッション」の4つである。この他に、訓練生と家族にそれぞれ週1時間ずつ「個人カウンセリング」と「家族セッション」がある。そのどれもが、スタッフにとっては重要な情報源となり、また家族にとっては、症状の学びと、コーチングの技術の学びの時間となる。また、Ruskと日常生活をつなぐための学びが行われるのもこれらの時間である。訓練生と家族のそれぞれの問題に対する戦略と準備が、すべての訓練に有機的に組み込まれていることがRuskのプログラムの圧倒的にすごいところである。一日の訓練の流れを繰り返すことに深い意味を持たせ、1週間、1ヶ月、1サイクル・・・と、訓練の中身を最適化させながら変えていく。

 Ruskの訓練は「認知機能の神経心理ピラミッド」という図表を中心に行われる。ピラミッドの各層は9層あり、最下層から、1.「リハビリに自ら取り組む意欲」、2.「覚醒」「(注意)厳戒体勢」「心的エネルギー」、3.「発動性」・「制御」、4.「注意と集中」、5.「情報処理とコミュニケーション」、6.「記憶」、7.「遂行機能」・「論理的思考力」、8.「受容」、9.「自己同一性」と描かれている。2に問題が生じると【神経疲労】、3の発動性に問題が生じると【無気力症】、感情の制御の問題は【抑制困難症】の症状を引き起こす。例えば神経疲労を起こすと、下から7番目の遂行機能を使って何か高度な行動をしていても突然機能しなくなる、というようなことが起こる。認知機能の働き方がピラミッド型であるのは、下位の機能がきちんと働いていないと上位の機能はうまく働かない、そしてピラミッドの上に行くほど「気づき」や「理解」は進み、機能が下がればそれらは一気に下降するということを示している。下位の諸機能が基盤として働くためには、自らの症状に対して予防し戦略を使って行動する必要がある。Ruskでは症状のひとw)EUR「弔劼箸昼u桙ノ10以上の補填戦略があり、これを訓練生と家族は、理論的にも実践的にも学ぶ。Ruskでは関係する医学分野の他にも神経心理学や教育心理学などの理論的な裏付けのもと、すべての訓練や日常生活における訓練と連動させて、戦略の実践を習慣化するまで練習、習得させる。Ruskの訓練後に訓練生たちが社会の中で機能できるように全人的な視点から構造化された集中強化訓練である。

 脳損傷者は外から見て普通でも、その日常は記憶の障害や情報処理の問題などにより困難に満ちている。戦略を使うこと自体、記憶の問題で継続できないので、周囲の支援を得ながら機能できる環境を整える,というのが重要なポイントになる。そのため、家族がホームコーチとなり、Ruskでの訓練のように、ポイントを絞って一定期間のゴールなどを設定して、訓練の延長で生活を支援すれば、訓練生はかなりの能力を発揮できるようになる。コーチングはサンドイッチ効果(+?+)が大事で、改善してほしいことをうまくいっていることに挟み込んでコメントすると効果が高まる。また、ポジティブ・フィードバックが大切で、良いことをできるだけ具体的に指摘することが大切である。そのためには家族も症状の正しい知識や戦略の使い方を学ぶ必要がある。訓練所で家族がスタッフの仕事ぶりを学び、カウンセリングや家族セッションで症状や対応の教育を受けることは大いに意味がある。

 Rusk脳損傷者のリハビリ訓練から、私自身、前頭葉の機能の働き方や、コーチングの意味を学んだ。家族の学びは医療機関に頼りがちな患者の家族の意識をも変える。患者が「自分で自分を取り戻す」ことがどんな問題の時もリハビリの最終ゴールなのではないか。その力を身につけるために学ぶべきことは多いが、ひとたび基盤を身につけると、何かと応用がきき難局も乗り越える力が身につく。Ruskのプログラムの責任者だったベニーシャイ博士から、「粧子、すぐに一喜一憂せず、焦らず忍耐力を養いなさい。一歩一歩が大切」と教えられた。患者自身にも環境や周囲の人との新しい関係性への適応力・順応性が必要だが、家族も変化を受容する勇気が必要である。患者と家族の双方が、障害を得た新しい自分(相手)の幸せのために、自己を再構築して更なる人生を生きてゆきたいものである。

略歴

1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
1984年 国際ロータリー財団奨学生として渡米
1988年 シカゴ大学大学院修了(芸術学修士号)
1991年 南カリフォルニア大学大学院修了(音楽芸術博士号)
2004-05年 NY大学医療センターRusk研究所にて脳損傷者の通院プログラムに参加
      治療体験記を『総合リハビリテーション』(2006)に連載。
2010年 『前頭葉機能不全その先の戦略』(立神粧子著;医学書院)
       現在:フェリス女学院大学音楽学部音楽芸術学科教授、音楽学部長

参加者から

●中枢神経が障害された場合の回復は可能だろうか?リハビリにいい方法はないのだろうか?くも膜下出血で数年間、表情も感情もなく,無反応で無気力だったところから、ニューヨークRusk研究所のプログラムで一年間訓練を受け回復した経験をお話頂いた。神経学的にどのような回復をたどったのか、興味深いところである。治療やリハビリを、病院・施設を主体に考えると見方(評価)が短期的になってしまう。病は一生もの、治療(訓練)も一生もののはず。家族と共に歩む治療の重要性を再認識。コーチングの技(sweet & short)、広く使えそうだ。(新潟市/眼科医/男性)

●立神先生(小澤さん)ご夫妻とは、2011年に安藤先生が開催した「高次脳機能と視覚の重複障害を考える」というシンポジウムでもお会いしておりました。しかし、それよりもずっと前の2002年にも小澤さんを拝見しています。私が以前に勤めていた神奈川リハビリテーション病院でのことです。残念ながら私の記憶が怪しいのですが、奥様のお話ではご主人があまりに反応がないので見えていないのではないかと眼科を受診したとのことでした。当時の私の患者さんの1/3は見えない人、1/3は歩けない人、そしての残りの1/3はわからない人でした。小澤さんはその中の3番目にあたる患者さんでした。前回もしっかりしたなあと思いましたが、今回はさらにそう思いました。リハ病院では入院3ヶ月、通院3年でたいてい他の施設に移るのが常のようです。しかし、高次脳機能障害の方は、小澤さんのように10年以上かけて少しずつ良くなっていく方も稀ではないようです。期限を切るのがリハの性と思う中で、継続的なリハの重要性を改めて実感しました。いつまでも繋いでいるとリハ病院がパンクしてしまうというのもまた事実でして、急性期を終えてすぐの方をできるだけ多く診察するためには、現状の仕組みもやむを得ないのかなとも思います。その点で、立神先生ご夫妻が体験したRusk研究所のご家族にコーチ役をしていただくという方式は、退院後、通院終了後もリハが継続され、病院業務も圧迫せずに済むという理想型だなと感じました。また、質問のときにも取り上げましたが、通院訓練中の患者さんを「訓練生」と呼んでその自主性を自覚させるというあたりが、日本のリハに不足している部分ではないかと思いました。もちろんリハの現場では、自主性を無視しているわけではありません。もっと患者さん自身やご家族にその自覚を促すことに力を入れるべきと思うのです。現在の医療においても「赤ひげ」の時代の医師患者関係を望む向きが医者側にも患者側にもあり、それがすべて悪いとは言いませんが、この時代に見られた患者の依存心は、少なくともリハという文脈の中では患者の自立を阻害する要因なのではないかと思うのです。この自主性は、障害者権利条約の中にもリハは「あくまで自発的なものであって」とあることにも通じ、今後のリハ全体を考える上でも最重要の概念なのではないかと思いました。そういう観点からして、話は少し飛びますが、今後の視覚リハの方向性を考えるとき、既存の当事者団体はもちろんのこと、そういう団体に属していない患者さん自身からの情報発信とそれができるインフラ整備が不可欠なのではないかと思います。(埼玉県/眼科医/男性)

●リハビリのプログラム、方法論が非常に大事で、日本でも早く確立して欲しいと思いました。立神先生の愛が非常に大きな役割を果たしたことは間違いありませんが、機能的・器質的にどのような変化が小沢さんの頭のなかで起こったのだろうと理系的な思いも浮かびました。(新潟市/眼科医/男性)

●普段お聞きできない分野で、貴重な体験でした。日本で、なぜこのようなプログラムができていないのか、日本の医療の中のリハビリの地位の低さ、効率の悪さを考えさせられました。(大阪市/眼科医/女性)

●バイリンガルでいらしたり、プロになられるまでの楽器の反復練習を継続されているという能力あるいは習慣をお持ちということで、リハビリのスタート時点から、とてもレベルが高くいらしたのだろうなと思いました。(新潟市/眼科医/女性)

●立神先生のご著手は、購入していました。ご夫妻の葛藤は、凄まじいものが有ったと思います。私自身も一時は「高次脳機能障害」の疑いをもたれ家内との間で凄い葛藤がありました。「NY行く前に…高次脳機能障害の症状」此れ未だに全て当てはまります。他人事ではなく、私と家内の両方が「鬱状態」となり…ました。毎年此の時期
になると、病院から退院(脱出?)の日を思い出しています。主治医に勧められた「チャリ」此れも自身では、リハビリの一環としています。「病は一生もの、治療(訓練)も一生もののはずですから」中々出来る事ではありませんが、私たち夫婦も可能な限り頑張ってみます。(新潟市/会社員/男性)

●ー人を愛することって素晴らしい事ですね.(新潟県/眼科医/女性)

●Rusk訓練は説得力抜群、ただ、事前に、どこまで回復可能かを予測した科学的方法論を知りたくおもいました。(新潟市/眼科医/男性)

●ベースにご夫婦の愛があって、ご主人を、尊重してやっていらっしゃったからいい結果につながったのだと感じました。(新潟市/神経内科医/女性)

●高次脳機能のリハビリのお話も、感激と共に脱帽ですね。これほどに完璧に取り組み、成果を挙げていることは、私たちは是非学び、新潟でもシステムを組み、実行する必要性を感じました。(新潟市/内科医/男性)

●無気力症の方のリハビリは本当に難しいのですが、ご主人は新しいステージに進もうとされているのかなと思いました。原則的に進行性ではないという高次脳機能障害の障害特性から、立神先生のように対応すれば「今が最低、上向き人生」にできるのではないかと思います。私たち素人の指導員はそれを信じて関わっていきたいです。勇気を頂きました。ありがとうございました。(京都市/生活訓練指導士/男性)

●本来なら人生に挫折してしまいそうな境遇、場面を先生とご主人の地道な治療の継続と努力 そしてお互いを思いやる気持ちがあってこそのリハビリの姿に感動いたしました。(新潟市/薬品メーカー/男性)

●私自身、この業界に身を置く以前、認知症介護施設で勤務していた事もあり、その当時の記憶も相まって、心に響くご講演でした。正直、高次脳機能障害の方があそこまで回復している姿は大変驚きで、その裏では、エビデンスとロジックに基づいたとても大変なリハビリがあり、その賜物であるという事がよくわかりました。 ラスクのリハビリ法も、患者様によって症状が異なる為 それに合わせたリハビリを行う必要を説いてらっしゃいましたが、 患者様のリハビリと同等以上に、ご家族の訓練が重要な事もよく理解できました。 まさにその答えが小澤氏その物かと思いますので、とても中身の濃いご講演でした。(新潟市/薬品メーカー/男性)

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