HOME > author : c15eehzg

All posts by c15eehzg

盲学校理療教育の現状と課題~歴史から学び展望する~

案内:第242回(16-04)済生会新潟第二病院眼科勉強会 小西 明

演題:盲学校理療教育の現状と課題~歴史から学び展望する~
講師:小西 明(済生会新潟第二病院 医療福祉相談室)
日時:平成28年04月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4572

講演抄録

 三療(あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう)を主とし、それらと関連した手技療法や物理療法、運動療法などを含む非薬物療法の総称を「理療」という。

 古代より視覚障害者の男性は、語り部として、あるいは宗教者、平家琵琶の弾奏者の担い手であったが、江戸時代に入り杉山和一の管鍼術をはじめとする理療の知識や技術を獲得していった。これ以後、幾多の変遷はあったが、理療は伝統的に視覚障害者の主な職業として位置付けられ、現在も盲学校の職業教育として中心的な役割を果たしている。賛否はあるが、視覚障害者によって数百年にわたり同一職業が継承され、社会で評価されてきたことは特筆すべき事項であり、他国に例がない。ところが近年、盲学校高等部普通科在籍者及び中途視覚障害者入学希望者の減少、障害の重度化・多様化による理療以外の進路選択などにより、結果として理療科在籍者の減少が続いている。

 一方、高齢者増による医療制度改革、晴眼者のはり師・きゅう師・柔道整復師の増加、日本標準産業分類にエステティック業やリラクゼーション業が設けられるなど、視覚障害理療師を取り巻く状況は厳しさを増している。

 ここでは、①日本で視覚障害教育が創始された、明治13年(1880)京都盲唖院、明治14年(1881)楽善会訓盲院(現:筑波大学付属視覚特別支援学校)から現在までの理療教育制度と背景となる社会状況の概観 ②盲学校理療科が抱える指導内容、修業年限、進路開拓、卒後研修などの課題 ③学校規模、教員養成システム、専攻科の大学編入、視覚障害者団体の動向など現在検討されている事項を取り上げ、今後の理療教育の在り方を展望したい。

略歴

1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
2015年 済生会新潟第二病院医療福祉相談室勤務

ネット配信について

「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により実況ネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ

報告:第241回(16‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 (関 恒子)

演題:「『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ」
講師:関 恒子(長野県松本市)
日時:平成28年03月09日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4597

講演要約

1) 発症と治療
私は20年前、まず左眼に、その半年後右眼にも近視性新生血管黄斑症と診断され、発症から各々1年後と2年後に黄斑移動術を受けた。左眼は期待した結果が得られず、合併症や再発の為に術後3年間は入院手術を繰り返したが、6年を過ぎた頃漸く安定した。幸い右眼は術後視力が改善し、再発もなかった。しかし現在は両眼共網膜萎縮の進行により0.1~0.2に低下し、目下の悩みは進行しつつある視野欠損である。

私が発症した20年前は黄斑変性症やロービジョンという語はまだ普及しておらず、何の知識もなかったので、視力低下の可能性があることを告げられた時の驚きは非常に大きかった。また今と違って確立した治療法がなかったことが私に二重の打撃を与えた。私がまだ予後不明の黄斑移動術を受ける決意をしたのは、視力の低下を放置することが何よりも辛かったからで、治療が受けられるということは当時私の大きな救いとなった。

2) 私の挑戦
手術によって左眼は新たな視野の欠損や、様々な見え方の不具合が生じたが、右眼は一時期0.7位まで改善し、私の生活を向上させてくれた。目を大切にする為に目を使うのを避ける人もいると思うが、私は改善した視力を有効に使うことを考えた。視力低下を告げられた時、私の最初の恐れは文字が読めなくなる事と外出が困難になる事だった。“再発によって再び視力が低下するかもしれない。それなら見えるうちに大いに読書や外出をしておこう”と私は考えた。私は近くの大学に通って全くの専門外であるドイツ文学を学び、多くの作品を読んだ。外にも出て見えなくなるかもしれない時の為に外界の物を心して目に焼き付けてきたつもりである。

また私は長年フルートのレッスンを受け続けてきたのだが、術後視力が改善したといっても中心近くの暗点の為に並ぶ音符を即座に読み取ることができず、初見の演奏はできなかった。暗点を追い払うように意識して見なければ見えない。読書も拡大鏡や電子ルーペが必要だった。一旦はレッスンを止めることを考えたが、耳で曲を覚え、楽譜は確認に使うことにし、フルートの先生のご理解を得て今も続けている。目が正常だった頃は耳より目を優先させていた為に、自分の音色に耳を傾け心をこめる事がおろそかになっていたことを反省し、目が悪くなったことが上達の妨げになるとは限らないと今では思っている。私にはまだ耳があるとフルートが教えてくれたような気がする。

私が特に意欲をもってしていることに毎年の滞在型海外旅行がある。旅行社のツアーに参加するのではなく、自分で計画し、単身3,4週間滞在するのだが、旅行には少しだけ目的を持たせている。例えば、この3年間は英国に行っているが、アガサ・クリスティやコナン・ドイルをテーマにしたり、英国流の日常生活を体験する為にホームステイをしたりである。この数年特に視力低下した私が海外に出るには当然様々な困難がある。単眼鏡とiPadを駆使しながらの移動はストレスが多いし、正しい乗り物に乗れるか、いつもハラハラしている。標示や看板が見難い為に乗り継ぎに十分すぎる時間をとったり、ネットで購入できる券類は日本国内で取ったり等、現地での困難を避ける為の対策も必要である。近年はユニバーサルデザイン化が進んできていることを各地で実感でき、とても嬉しい。

3) 終わりに
ドイツ文学もフルートも海外旅行も、全てを私は挑戦と思っている。見たい物が見えなくなるその時まで、できるだけ行動の幅を狭めない為に今の自分にどこまでのことができるか挑戦し、自分を試しつつ来たこの十数年は、平凡ではなかったけれど、私にとって決して無意味なものではなかったと確信する。
最後に、見たい物が見えなくなった時にはどうなるのか、演者の拙い問いに温かく答え、教えてくださった障害を持つ参加者の皆様に感謝致します。

略歴

富山大学薬学部卒業。薬剤師。
信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。薬品会社勤務。退社。
1996年左眼に続き、右眼にも近視性黄斑症を発症。
1997年と1998年に黄斑移動術を受ける。
松本市在住。趣味:ドイツ文学研究、フルート演奏、英国文化にも憧憬を持つ。

後記

 本勉強会には何名かの方が、数度にわたり講師を引き受けて頂いています。今回の関さんもその中のお一人で、今回が5回目の講演でした。ご自身の経験を理路整然とお話しして下さいます。
 視力悪化が進行していく時の不安、大きな手術を受ける時の決心、見えているうちにしている幾つかの挑戦(ドイツ文学、フルートの演奏、海外旅行)の話は素晴らしいものでした。
 講演後に、関さんが参加された視覚障害の方々に、「どういうときが一番辛かったですか?」「見えなくなってからでも楽しいことはありますか?」という質問をして、その受け答えはとても印象的でした。
 挑戦のお話の続きをお聞きしたいと思いました。関さん、今後ますますご活躍ください。

これまでの講演要約

これまで関恒子さんがお話しして下さった講演要約を以下にまとめました。
=====================================
第216回(14‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
講師:関 恒子 (松本市)
日時:平成26年2月12日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/2512

第187回(11‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「患者から見たロービジョンケア―私は何故ロービジョンケアを必要としたのか?」
講師:関 恒子 (長野県松本市)
日時:平成23年9月14日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/4513

第163回(09‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「賢い患者になるために 視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者)
日時:平成21年9月14日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/4521

第135回(07‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
講師:関 恒子(患者;松本市)
日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/4530

『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ

案内:第241回(16‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 (関 恒子)

演題:「『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ」
講師:関 恒子(長野県松本市)
日時:平成28年03月09日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4488

抄録

 私が近視性黄斑変性症を発症してちょうど20年、左眼、右眼に黄斑移動術を受けてからそれぞれ19年、18年になる。ある日見つけた視界の中心の小さな歪みは次第に眼鏡の真ん中に拭っても消えない水滴が付いているかのようにかすみ、やがてそれははっきりした中心暗点となっていった。強度近視を持っていたもののそれまで何の不便もなかったのに、左眼に続き半年後に右眼にも発症したため、日常生活さえ脅かされるような不便さを感じ、この頃の不安はとても大きかった。中心暗点に邪魔されて見たい物がよく見えない。自然に直視すると、周りの不要な物は見えても見たい物は見えないので、先ず暗点を追い払い、周辺視野を使って見るようにしなければならない。つまり見たいという願望を持ち努力しない限り物は見えてこないのである。

 この状況をなんとしても改善したかった私は、当時治験中の黄斑移動術を受けることを決めた。新しい治療法との出会いは、私に希望を与え、結果のいかんに関わらず、大きな精神的救いとなった。術後合併症や再発のために入退院を繰り返し、術後生じた不具合な見え方に不満を感じることはあったが、術前より視力は改善し、右眼は再び中心で物を見ることができるようになったことで、私のQOLは非常に向上した。私はこの視力を精一杯有効に使うことを決意し、拡大鏡を使って読書量を増やし、景色も以前より心して印象深く見てきたつもりである。

 しかし最初の手術から19年経過した今、暗点は周辺から中心に及び、私は「見たい物がどうしても見えない」状況に近づきつつある。発病を知り、不便さをさんざん嘆いていた頃より症状はかなり深刻である。だが私の日常を見ると、確かに不便さは大きくなっているに違いないが、初期のような嘆きはなく、行動もそれほど制限されていない。これは自分の障害に対する意識変化と補助具の進化、ロービジョンに対するリハビリテーションの賜物であると思っている。しかしこの先自分がどこまで障害を受容できるかわからない。

 勉強会では見え方の変化の中で感じてきたことや、目が悪くなったからこそ見えてきたもの、これまでの私の挑戦等を語ってみたい。

略歴

富山大学薬学部卒業。薬剤師。
信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。薬品会社勤務。退社。
1996年左眼に続き、右眼にも近視性黄斑症を発症。
1997年と1998年に黄斑移動術を受ける。
松本市在住。趣味:ドイツ文学研究、フルート演奏、英国文化にも憧憬を持つ。

ブラインドメイク 実践と体験

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

案内 第240回(16-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会 若槻/岩崎

演題:「ブラインドメイク 実践と体験」
日時:平成28年02月17日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4411

抄録

演題1「女性にとってお化粧とは何でしょう?」

講師:若槻 裕子(新潟市;日本ケアメイト協会 講師)

 街を歩いていて視覚障がいの女性でお化粧をしている女性を見かける事がほとんどない。
 その理由は視覚に障がいがある事から、「口紅がはみ出していないか?」「色が濃すぎていないか?」「眉は変な形になっていないか?」などの不安要素が頭をよぎり、「いっそうのことお化粧をいないほうが楽よね」と考えてお化粧をしなくなったのではないでしょうか?
 2015年2月、済生会眼科勉強会でブラインドメイクの一人者の大石華法先生と運命的な出会いがありました。そこには、視覚障がいの女性が鏡を使わずに、一人で、誰の手も借りず、お化粧をする姿が目に入りました。化粧道具は両手指と刷毛が1本で、美しく、そして綺麗にフルメイクが仕上がっていく様子を初めて見ました。あまりの感動に鳥肌が立ちました。
 私は介護職員として又同行援護に携わる者として、ブラインドメイクは視覚障がいの方に役立てることができると思い、翌月から大阪の大石先生のもとへ通うようになり、早1年が経ちました。そこで感じたことは「お化粧をしたい!」との声を多く聞くことで、視覚障がいの女性も私と同じ「女性」であり「綺麗になりたい」「綺麗でありたい」という思いは同じであるということです。“視覚障がいの女性”ではなく、“ひとりの女性”であることを忘れてはならないということです。
 「女性ですもの」どの女性にも綺麗になる権利はあると思います。女性にとっての“お化粧”とは単に顔を美しく綺麗に演出するだけのものではなく、内面からも美しく綺麗になり、自信という強い武器を持つこと。そして、それは障がいが有る無しに関わらず“ひとりの女性”である以上、同じということです。

演題2:「私の化粧(フルメーキャップ)の自己実現」-ブラインドメイクの出会いから1年ー

講師:岩崎 深雪(新潟市;盲導犬ユーザー)

 化粧に全く関心がなかった私が、平成27年2月に大石先生の視覚障害者が鏡を見ないでひとりで化粧ができるブラインドメイクの講演を聞いたときは、正直「こんなこと私に出来ない。場違いなところに来てしまった。さっさと帰ろう。」とその場から逃げだしたくなりました。
 しかし、同行してもらった若槻さんから「私も興味があるから一緒にやろうよ。」と誘われたことから、徐々にその気になり、5月からブラインドメイクのレッスンを大阪まで通い、受けることになりました。
 第1回目のレッスン(フェイシャル&スキンケア)後、乾燥していた唇が潤い、肌がツルツルになっていくことを手指で感じることができました。このレッスンで、自分の顔が愛おしく感じるようになり、次第に気持ちが楽しくなりました。レッスンの度に綺麗に化粧ができるようになっていく自分を感じることで自信がつき、内面から変化していくことに気が付きました。今では、出かけるときは必ず化粧をするようになりました。化粧をせずにスッピンで出かけた時は、いつの間にか下向きになっている自分に気がつきました。化粧をして出かけると、自分では無意識のうちに背筋を伸ばして、顔を上げて歩いています。
 化粧には全く縁がない、化粧することは無理だと諦めていた私ですが、ブラインドメイクができるようになったお蔭で、自信がつき、姿勢もよくなり、気持ちも若返り、健康維持にも欠かせないものとなりました。

参考

第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 大石華法
演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3418

パラドックス的人生

報告:第239回(16-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会 上林明

演題:「パラドックス的人生」
講師:上林明(新潟市)
日時:平成28年1月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4401

講演要約

 私は昭和19年(1943年)に、今の山形県鶴岡市の個数僅か48軒の小さな漁村に視覚障害をもって生まれた。親は、生後1か月を待たずに新潟大学病院眼科まで出かけ、熊谷教授に治療を嘆願したそうだが、当時は病名すら理解していなかった(注:先天性上眼瞼欠損症)。

 昭和24年(1949年)9月、集落の9割を嘗め尽くした大火災が起こった。真夜中なのに真昼のような明るさの炎、逃げ惑う人々の狂気の叫びと、持ち出した家財の投下。漁村なるが故の船舶用燃料用ドラム缶の破裂による大音響と空高く燃え上がる火柱と炎熱地獄。5歳にして命の危機を体験した。

 火事は、それはそれは恐ろしかったが、本当の苦しみはその日以降から始まった。復興をめぐって、陰湿で封建制と差別に満ちた障碍者を理由とした不当不公平な差別と嫌がらせを受けた。宅地の配分でも、村を不幸に陥れる片端もの(しょうがいしゃ)には人と人並みの土地はやれないとの仕打ちを受けた。

 母は連日のように「私がお前のような障害時を生まなかったなら、こんな不幸には遭わなかった」と5歳の私に向かってなげき、時には号泣していた。そんなことを何回も聞いているうちに、「死のう」と思って、夜中にこっそり家を出て海に入り沖に向かって歩いた。そこに、祖父が海にいる私を見つけて海に飛び込み、「馬鹿野郎」と言ってぶん殴り、そして抱きかかえてくれた。5歳ではあったが、私の家族と私に襲い掛かってくる数々の難問と差別に押し潰されそうな人生の始まりであった。

 祖父は懸命に私を諭してくれた。「負けるな、一つ頭抜けた人間となって見返してやれ」と。この被災が、それからの私の生き方に大きな示唆と生きる力を与えてくれたと思っている。

 教育が大事だという祖父の勧めもあり、当時にしては珍しく、学齢6歳にして鶴岡の盲学校・その寄宿舎に入った。小学・中学を終え、昭和35年(1960年)新潟盲学校高等部に入学。山形の本校を選ばず新潟を選んだ理由は新大医学部から講師が派遣され理療科を学ぶことができたから。とはいえ、私は勉強する・努力すると言ったことが身に沿わない人間だったようだ。閉鎖的な東北から比較的開放的な新潟へ来て、勉学に励んだのではなく、当時吹き荒れていた60年安保闘争に、障碍者に対する差別偏見と闘うと叫びつつ、どんどん身を委ねて行ったのだった。校内でも、討論集会や学習会を組織し、将来の障碍者としての生き方、古い体質のマッサージ・はり・灸業界と労働条件の改善を話し合う。

 卒業後もそれらの命題を掲げて新しい障碍者運動団体を作り、運動を進めた。生来の音楽好きと、こうした運動とのかかわりから外の合唱団や歌声運動に加わり、校内にも広め、さらにたくさんの晴眼者や団体との連帯が進んだ。障碍者の団結も大事だが、周りの一般社会人との交流連帯によって得たものは大きかったと思う。その結実は、現在「新潟県視覚障碍者友好協議会」として、また「男声合唱団どんぐり」として残り、大きく発展している。

 昭和50年(1975年)私なりに一つのけじめをつけ、次のステップに進むこととなった。職業としての新潟県はり・灸・マッサージ業界の理事・理事長として会館建設と健保取扱いの向上、かつての運動当時に培った新潟水俣病現地診療で得た知識と人のつながりを生かして、この施術の開発と公助制度の確立にまい進。テレビ番組によるこれら施術の普及を進めるために準レギュラーとして出演。また、乞われて福祉医療専門学校非常勤講師として教壇にも立った。むしろ学生から学ぶところは大きかった。

 それらとともに有線やインターネットを通じて開始されたJBS日本福祉放送の番組制作を13年間務めた。そうした中で、「司会者協会」に参加してイベントや舞台の司会業も側として行ない、多数の歌手のコンサート司会も担当した。

 詩吟神風流に入門し42年目となり、現在は会長として教室を県内数か所に開設し、地域の生きがいづくりに貢献を図っている。市・県の連盟理事・コンクール審査員。視覚障碍者「あいゆー山の会」に参加し、県内の里山や富士山・立山などに山行。晴眼のパートナーを信じ連帯を尊重しつつ上り行く山は、肉体のみならず精神を鍛えてくれると思う。中越地震被害者救援施術を主催したが、この折にも山の仲間は人と物資輸送・受付などを手助けしてくれ、人間としての連帯感を強く感じることができた。

 多分、私が晴眼者で生まれたら、当時の世相から親の跡を継ぎ漁民か船員に終わったかと思われる。目が見えず、差別偏見を受けなかったらこの愉快な人生は得られなかったと思う。今日の境遇や多数の人との愛に満ちた連帯に感謝し、残る人生も多数の社会と人と手を携え楽しく愉快な余生を過ごしたいものである。

略歴

1944年 山形県西田川郡加茂町(現鶴岡市)の小さな漁業集落に、視力障害をもって生まれる。
1951年 山形県立鶴岡盲学校小学部入学。
1960年 新潟県立盲学校高等部入学
1963年 按摩・マッサージ・指圧師免許取得
1965年 新潟県立盲学校卒業。鍼師・灸師免許取得。
   同年 柏崎市の植木治療院勤務。
1967年 新潟市山ノ下地区(現在地)に「上林鍼灸マッサージ治療院」開業(2014年閉院)。
1969年 結婚。2児を育て現在それぞれ独立。
1975年 詩吟神風流に入門。現在詩吟神風流越水会会長。雅号「神天」。
      県・市吟詠連盟理事。全吟連新潟県コンクール審査員。
1994年より2年間(社)新潟県鍼灸マッサージ師会理事長。
     視覚障碍者山の会「新潟あいゆー山の会」会員。

後記

 上林さんの壮大な人生を語って頂きました。5歳の時の大火、その後の差別という試練。祖父の励ましと、見返してやるという覚悟。障碍者に対する差別と闘った青年時代。仕事に邁進しながらも新潟県はり・灸・マッサージ業界のリーダーとしての活躍、そしてJBS日本福祉放送の番組制作と司会者としての活躍した壮年時代。詩吟と山の会で活躍中の現在、、、、、。 目が不自由だったからこそのいい人生を送ってこれたという最後の言葉に心打たれました。
 上林さんは、非常に明るく人望があります。幾度の苦難も明るく乗り越えてきた上林さんの、益々の活躍を祈念しております。

ページの先頭へ