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ブラインドメイク 実践と体験

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

案内 第240回(16-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会 若槻/岩崎

演題:「ブラインドメイク 実践と体験」
日時:平成28年02月17日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4411

抄録

演題1「女性にとってお化粧とは何でしょう?」

講師:若槻 裕子(新潟市;日本ケアメイト協会 講師)

 街を歩いていて視覚障がいの女性でお化粧をしている女性を見かける事がほとんどない。
 その理由は視覚に障がいがある事から、「口紅がはみ出していないか?」「色が濃すぎていないか?」「眉は変な形になっていないか?」などの不安要素が頭をよぎり、「いっそうのことお化粧をいないほうが楽よね」と考えてお化粧をしなくなったのではないでしょうか?
 2015年2月、済生会眼科勉強会でブラインドメイクの一人者の大石華法先生と運命的な出会いがありました。そこには、視覚障がいの女性が鏡を使わずに、一人で、誰の手も借りず、お化粧をする姿が目に入りました。化粧道具は両手指と刷毛が1本で、美しく、そして綺麗にフルメイクが仕上がっていく様子を初めて見ました。あまりの感動に鳥肌が立ちました。
 私は介護職員として又同行援護に携わる者として、ブラインドメイクは視覚障がいの方に役立てることができると思い、翌月から大阪の大石先生のもとへ通うようになり、早1年が経ちました。そこで感じたことは「お化粧をしたい!」との声を多く聞くことで、視覚障がいの女性も私と同じ「女性」であり「綺麗になりたい」「綺麗でありたい」という思いは同じであるということです。“視覚障がいの女性”ではなく、“ひとりの女性”であることを忘れてはならないということです。
 「女性ですもの」どの女性にも綺麗になる権利はあると思います。女性にとっての“お化粧”とは単に顔を美しく綺麗に演出するだけのものではなく、内面からも美しく綺麗になり、自信という強い武器を持つこと。そして、それは障がいが有る無しに関わらず“ひとりの女性”である以上、同じということです。

演題2:「私の化粧(フルメーキャップ)の自己実現」-ブラインドメイクの出会いから1年ー

講師:岩崎 深雪(新潟市;盲導犬ユーザー)

 化粧に全く関心がなかった私が、平成27年2月に大石先生の視覚障害者が鏡を見ないでひとりで化粧ができるブラインドメイクの講演を聞いたときは、正直「こんなこと私に出来ない。場違いなところに来てしまった。さっさと帰ろう。」とその場から逃げだしたくなりました。
 しかし、同行してもらった若槻さんから「私も興味があるから一緒にやろうよ。」と誘われたことから、徐々にその気になり、5月からブラインドメイクのレッスンを大阪まで通い、受けることになりました。
 第1回目のレッスン(フェイシャル&スキンケア)後、乾燥していた唇が潤い、肌がツルツルになっていくことを手指で感じることができました。このレッスンで、自分の顔が愛おしく感じるようになり、次第に気持ちが楽しくなりました。レッスンの度に綺麗に化粧ができるようになっていく自分を感じることで自信がつき、内面から変化していくことに気が付きました。今では、出かけるときは必ず化粧をするようになりました。化粧をせずにスッピンで出かけた時は、いつの間にか下向きになっている自分に気がつきました。化粧をして出かけると、自分では無意識のうちに背筋を伸ばして、顔を上げて歩いています。
 化粧には全く縁がない、化粧することは無理だと諦めていた私ですが、ブラインドメイクができるようになったお蔭で、自信がつき、姿勢もよくなり、気持ちも若返り、健康維持にも欠かせないものとなりました。

参考

第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 大石華法
演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3418

パラドックス的人生

報告:第239回(16-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会 上林明

演題:「パラドックス的人生」
講師:上林明(新潟市)
日時:平成28年1月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4401

講演要約

 私は昭和19年(1943年)に、今の山形県鶴岡市の個数僅か48軒の小さな漁村に視覚障害をもって生まれた。親は、生後1か月を待たずに新潟大学病院眼科まで出かけ、熊谷教授に治療を嘆願したそうだが、当時は病名すら理解していなかった(注:先天性上眼瞼欠損症)。

 昭和24年(1949年)9月、集落の9割を嘗め尽くした大火災が起こった。真夜中なのに真昼のような明るさの炎、逃げ惑う人々の狂気の叫びと、持ち出した家財の投下。漁村なるが故の船舶用燃料用ドラム缶の破裂による大音響と空高く燃え上がる火柱と炎熱地獄。5歳にして命の危機を体験した。

 火事は、それはそれは恐ろしかったが、本当の苦しみはその日以降から始まった。復興をめぐって、陰湿で封建制と差別に満ちた障碍者を理由とした不当不公平な差別と嫌がらせを受けた。宅地の配分でも、村を不幸に陥れる片端もの(しょうがいしゃ)には人と人並みの土地はやれないとの仕打ちを受けた。

 母は連日のように「私がお前のような障害時を生まなかったなら、こんな不幸には遭わなかった」と5歳の私に向かってなげき、時には号泣していた。そんなことを何回も聞いているうちに、「死のう」と思って、夜中にこっそり家を出て海に入り沖に向かって歩いた。そこに、祖父が海にいる私を見つけて海に飛び込み、「馬鹿野郎」と言ってぶん殴り、そして抱きかかえてくれた。5歳ではあったが、私の家族と私に襲い掛かってくる数々の難問と差別に押し潰されそうな人生の始まりであった。

 祖父は懸命に私を諭してくれた。「負けるな、一つ頭抜けた人間となって見返してやれ」と。この被災が、それからの私の生き方に大きな示唆と生きる力を与えてくれたと思っている。

 教育が大事だという祖父の勧めもあり、当時にしては珍しく、学齢6歳にして鶴岡の盲学校・その寄宿舎に入った。小学・中学を終え、昭和35年(1960年)新潟盲学校高等部に入学。山形の本校を選ばず新潟を選んだ理由は新大医学部から講師が派遣され理療科を学ぶことができたから。とはいえ、私は勉強する・努力すると言ったことが身に沿わない人間だったようだ。閉鎖的な東北から比較的開放的な新潟へ来て、勉学に励んだのではなく、当時吹き荒れていた60年安保闘争に、障碍者に対する差別偏見と闘うと叫びつつ、どんどん身を委ねて行ったのだった。校内でも、討論集会や学習会を組織し、将来の障碍者としての生き方、古い体質のマッサージ・はり・灸業界と労働条件の改善を話し合う。

 卒業後もそれらの命題を掲げて新しい障碍者運動団体を作り、運動を進めた。生来の音楽好きと、こうした運動とのかかわりから外の合唱団や歌声運動に加わり、校内にも広め、さらにたくさんの晴眼者や団体との連帯が進んだ。障碍者の団結も大事だが、周りの一般社会人との交流連帯によって得たものは大きかったと思う。その結実は、現在「新潟県視覚障碍者友好協議会」として、また「男声合唱団どんぐり」として残り、大きく発展している。

 昭和50年(1975年)私なりに一つのけじめをつけ、次のステップに進むこととなった。職業としての新潟県はり・灸・マッサージ業界の理事・理事長として会館建設と健保取扱いの向上、かつての運動当時に培った新潟水俣病現地診療で得た知識と人のつながりを生かして、この施術の開発と公助制度の確立にまい進。テレビ番組によるこれら施術の普及を進めるために準レギュラーとして出演。また、乞われて福祉医療専門学校非常勤講師として教壇にも立った。むしろ学生から学ぶところは大きかった。

 それらとともに有線やインターネットを通じて開始されたJBS日本福祉放送の番組制作を13年間務めた。そうした中で、「司会者協会」に参加してイベントや舞台の司会業も側として行ない、多数の歌手のコンサート司会も担当した。

 詩吟神風流に入門し42年目となり、現在は会長として教室を県内数か所に開設し、地域の生きがいづくりに貢献を図っている。市・県の連盟理事・コンクール審査員。視覚障碍者「あいゆー山の会」に参加し、県内の里山や富士山・立山などに山行。晴眼のパートナーを信じ連帯を尊重しつつ上り行く山は、肉体のみならず精神を鍛えてくれると思う。中越地震被害者救援施術を主催したが、この折にも山の仲間は人と物資輸送・受付などを手助けしてくれ、人間としての連帯感を強く感じることができた。

 多分、私が晴眼者で生まれたら、当時の世相から親の跡を継ぎ漁民か船員に終わったかと思われる。目が見えず、差別偏見を受けなかったらこの愉快な人生は得られなかったと思う。今日の境遇や多数の人との愛に満ちた連帯に感謝し、残る人生も多数の社会と人と手を携え楽しく愉快な余生を過ごしたいものである。

略歴

1944年 山形県西田川郡加茂町(現鶴岡市)の小さな漁業集落に、視力障害をもって生まれる。
1951年 山形県立鶴岡盲学校小学部入学。
1960年 新潟県立盲学校高等部入学
1963年 按摩・マッサージ・指圧師免許取得
1965年 新潟県立盲学校卒業。鍼師・灸師免許取得。
   同年 柏崎市の植木治療院勤務。
1967年 新潟市山ノ下地区(現在地)に「上林鍼灸マッサージ治療院」開業(2014年閉院)。
1969年 結婚。2児を育て現在それぞれ独立。
1975年 詩吟神風流に入門。現在詩吟神風流越水会会長。雅号「神天」。
      県・市吟詠連盟理事。全吟連新潟県コンクール審査員。
1994年より2年間(社)新潟県鍼灸マッサージ師会理事長。
     視覚障碍者山の会「新潟あいゆー山の会」会員。

後記

 上林さんの壮大な人生を語って頂きました。5歳の時の大火、その後の差別という試練。祖父の励ましと、見返してやるという覚悟。障碍者に対する差別と闘った青年時代。仕事に邁進しながらも新潟県はり・灸・マッサージ業界のリーダーとしての活躍、そしてJBS日本福祉放送の番組制作と司会者としての活躍した壮年時代。詩吟と山の会で活躍中の現在、、、、、。 目が不自由だったからこそのいい人生を送ってこれたという最後の言葉に心打たれました。
 上林さんは、非常に明るく人望があります。幾度の苦難も明るく乗り越えてきた上林さんの、益々の活躍を祈念しております。

パラドックス的人生

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

案内:第239回(16-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会

演題:「パラドックス的人生」
講師:上林明(新潟市)
日時:平成28年1月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4266

抄録

 皆さんは、ご自分の人間としてのもっとも最初の記憶は、何歳くらいのどんな事柄かお思い出すことができるでしょうか?私にとっては、厳密には人生最先端とは言い難いのですが、5歳3か月、1949年9月16日未明に起きた、戸数48軒の集落の内、44軒がほぼ全焼に嘗め尽くされた大火災から、人生が始まったと言っても過言ではありません。

 真夜中なのに真昼のような明るさの炎、逃げ惑う人々の狂気の叫びと持ち出した家財の投下。漁村なるが故の船舶用燃料用ドラム缶の破裂による大音響と空高く燃え上がる火柱と炎熱地獄。それはそれは恐ろしい記憶ですが、本当の苦しみはその日以降に私の家族と私に襲い掛かってくる数々の難問と差別(東北地方の当時の障碍者差別は想像を絶するものがあった)に押し潰されそうな人生の始まりであり、その後の私の生き方に大きな教訓と示唆を与えてくれたものと思っています。

 生来勉強と努力が私に馴染んでくれなかったことで、理想や夢の大半を実現できないままに終盤の人生を迎えているのが実情です。ただ、渡辺和子先生は「置かれた場所で咲きなさい」と説かれましたが、誰かに連れてこられ、置かれた場所で安穏に暮らす視覚障碍者暮らしだけで終わりたくはない。むしろ私の趣味、吟詠の一説に「丈夫は玉砕するも甎全を恥ず」とありますが、晴眼者、障碍者に関わらず、皆でともに発達しあい、喜び悲しみを分かち合いつつ生きて行きたいと念じつつ、それらを実現すべく「リーダーを目指して」をモットーに今日まで明るく楽しく歩んで来たと思っています。
*「丈夫は玉砕するも甎全を恥ず」丈夫玉碎恥甎全(西郷隆盛)~立派な男子は、節義を守って死ぬことであって、つまらぬものとなって安全に生き残ることではない。

略歴

1944年、山形県西田川郡加茂町(現鶴岡市)の小さな漁業集落に、視力障害をもって生まれる。
1951年、山形県立鶴岡盲学校小学部入学。60年県立新潟盲学校高等部入学・65年卒。
1963年、按摩・マッサージ・指圧師免許、65年鍼師・灸師免許取得。同年柏崎市の植木治療院勤務。
1967年、新潟市山ノ下地区(現在地)に「上林鍼灸マッサージ治療院開業。94年より2年間(社)新潟県鍼灸マッサージ師会理事長。
1975年(昭和50年)、詩吟神風流に入門。現在詩吟神風流越水会会長。雅号「神天」県・市吟詠連盟理事。全吟連新潟県コンクール審査員。
 視覚障碍者山の会「新潟あいゆー山の会」会員。

ネット配信

 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力によりネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
 当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業

済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わりに読んで頂けましたら幸いです。

報告:第238回(15-12)済生会新潟第二病院眼科勉強会 田中正四

演題:「フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業~工夫を重ねて子供たちの心をキャッチ~」
講師:田中正四(胎内市)
日時:平成27年12月02日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4249

講演要約

 私の所属する(新発田音声パソコン フィンゲル)は、1996年に寄贈された1台のデスクトップパソコンと五名の視覚障がい者と五名のボランティアスタッフにより音声ワープロ教室としてスタートした。

 翌年には、市内のサマーキャンプ・フェスティバルに参加し、障がい者理解の浸透を目的に学校訪問を精力的に取り組み、同年には、市内の商業高校の文化祭にて、音声パソコンによるデモ実演を成功させるに至った。以来、今日まで地域の小・中学校を主とした学校訪問を(出前授業)と称して継続してきたが、歴史の長さと共に近年では諸問題に直面する事となった。

 今回私の報告は、その歴史と先輩諸氏の努力により築き上げた(出前授業)の変化と、地域独特の活動の困難を乗り越え、さらには、ボランティアスタッフの減少の中で、障がい者自から取り組んだ数々の工夫と改革の一例を紹介するものである。

 その改革は、2012年に永年私達のスタッフとして指導や運営を担っていただいたスタッフの退会により、(出前授業)の依頼の日程調整から、授業内容の決定、メンバーの構成と時間配分にいたるまで、私達障がい者の手で立案し、実践する事となったのである。(出前授業)では、視覚障害の解説や、日常生活の様子、白杖や盲導犬の有効性などが主な内容であるが、小、中学校の子供たちに障害の理解と工夫や努力を伝えるためには、作文を読むような内容では、理解されない。回数を重ね、反省と改善により、毎回の(出前授業)では、アイディアいっぱいの説明が聞かれるようになった。

 私は会社務め時代に学び得た(計画・実行・確認・改善)のサイクルを繰り返す事の重要性を再認識させられた。そんな仲間達の改善例を紹介したい。
 その1)子供達を集中させるために、ゲームやクイズで声を出させ、体を動かして、やわらかな雰囲気を作る。しかし、このゲームやクイズは、答えの中に視覚障害に対する思いや声かけの必要性、又、覚えてほしい事などを織り込むのである。
 その2)家庭生活の様子では、いかに上手に料理ができるかの説明だけではなく、(少しくらい大きさが異なっていても、口の中に入れれば、おんなじ食べ物ヨ。)
と、障害であるために時には、寛容な考え方もしなくてはならない事を理解させる。
 その3)音声パソコンを指導する仲間は、あえて画面をクローズし、音声を聞いて文字を聴きとらせ、簡単な文章を完成させる。必ず2~3人のグループで構成し、数回の予習復讐ができるように工夫を加える。
 その4)白杖、盲導犬の解説では、その有効性に加え、思わぬ危険性やお願い事項を織り込んで説明する。例えば、白杖での歩行時のヒヤリ体験や(盲導犬は、信号
の色が判断できない)などと、安全確保の重要性や意外な事などを紹介するのである。
 その5)視覚障害の説明では、小学校の高学年や中学生には、統計的数字を加えた説明を行い、印象深い説明を心がける事ができた。

 さらに、今年から取り組んだ事として、障害経験の浅い会員にも(出前授業)に参加していただいた。経験の浅い人の苦労話や、失敗談が子供たちに視覚障害をより理解して貰えると考えたのである。もちろん、本人と家族の了解のもと同意を得て、奥様にも同席していただいた。(階段で転倒した事・食事のおかずを全てご飯に乗せてドンブリ飯にした)と失敗や食事の楽しみを失った事を説明し、奥様からは、(階段を腕を組み、数えながら一緒に上った。仕切りのある食器を用意して、時計方向におかずを説明した。)などと家族の工夫を話していただき、私達も初心に帰った思いであったし、子供たちには当事者と、家族や周囲の協力、そして、本人の努力が重要である事を教える事が出来たと考える。

 現在、次年度の目標も検討中である。現在ブラインド体験や、誘導歩行の説明を晴眼者にお願いしているが、説明解説を私達自身で実践したい。又ブラインド折り紙などにより、その困難性やカン・コツをポイントで説明できないもか検討中である。さらには、盲導犬のスーツ・ハーネス等の意味や必要性、加えて補助犬法についても解りやすい解説ができたらと考えている。

 フィンゲルの(出前授業)のカリキュラムは多種であるが、学校や地域の求めに応じてさらに可変的に対応したいものである。今回の私の報告内容は、決してめずらしいものではないが、参加していただいた方や、読んでいただいた皆様の参考になればと願うものです。

略歴

1952年 長岡市(旧越路町)生まれ
1968年 日立制作所入所
2003年 腎不全により透析開始
2007年 視覚障害1級
2007年 日立製作所退社
2010年 盲導犬貸与される

後記

 盲導犬が5頭参加しての勉強会。何よりも、田中さんお話を聞いている時の参加者の楽しそうな笑顔が印象的でした。
 いつも田中さんは、つかみが上手い。今回の講演はこんな小噺から始まりました。「以前、初孫が大きくなったらおじいちゃんの眼を治してあげると言っていたが、今は断念したようだ。そのかわり二人目の孫が、将来は消防士になりたいと言い出した。「消防士になるなら、イッパイ勉強しないといけないよ」と言ったら、『消防士になれなかったら医者になる』と言っています。」
 今回のお話で、障がい者理解の浸透を目的に学校訪問を、自ら工夫を重ねて精力的に取り組んでおられていることを知りました。素晴らしい活動です。応援していきたいと思います。

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科

案内:「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科
日時:2016年1月23日(土) 14時半開場 15時~18時
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
要事前登録

「学問のすすめ」講演会は済生会新潟第二病院眼科で2010年2月より開始した企画です。若い医師とそれを支える指導者に、夢と希望を持って学問そして臨床に励んでもらおうと始めました。
 第10回講演会を予定しました。講師の先生には、若い人へのメッセージを添えて、取り組んでこられた研究テーマを中心に、これまでの学究生活について自叙伝風に語って頂きます。
 どなたでも参加できます。多くの皆様の参加をお待ちしております。

タイムスケジュール

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科
15時〜
座長:長谷部 日(新潟大学医学部眼科)
演題1:「好きこそものの上手なれ;Tell it like it is !」
講師 門之園 一明(横浜市立大学教授)
http://andonoburo.net/on/4223

16時半〜
座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
演題2:「医療における心」
講師:出田 秀尚(出田眼科名誉院長)
http://andonoburo.net/on/4243

19時 終了

事前登録制

参加費は無料ですが、会場準備の都合もあり、事前登録制(締切1月15日)です。参加希望の方は下記の要領で申し込み下さい。

事前登録

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院
 申込期間期限 平成28年01月15日(金)
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗
 e-mail:gankando@sweet.ocn.ne.jp
 Fax:025-233-6220

参加申し込み

「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院
  氏名~
  所属(勤務先)~
  職業~
 住所(都道府県名と市町村名のみお願いします)
 連絡方法(可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します)
  e-mail アドレス~
   Fax番号~
****************************************************
注:専門の職員はおりません。電話でのお問い合わせには応じることが出来ません。お問い合わせ等は、メールでお願い致します。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

 福沢諭吉の「学問のすすめ」の一説としてあまりに有名ですが、本当に意味するところは以下の通りです。
 人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。
 人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。

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