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視力を失ってから「嬉しかったこと、役立ったこと」

報告:第243回(16-05)済生会新潟第二病院眼科勉強会 大島光芳

済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わりに読んで頂けましたら幸いです。

報告:第243回(16-05)済生会新潟第二病院眼科勉強会 大島光芳
演題:視力を失ってから「嬉しかったこと、役立ったこと」
講師:大島光芳(上越市)
日時:平成28年05月11日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4704

講演要約

1.はじめに
 2009年、59歳の時に職場の時計が見えず、移動にも支障をきたしていました。しかし定年退職までまだ1年あり、どうしていいかが分かりませんでした。このとき偶然に大学病院の廊下で、ロービジョン外来の文字を見つけてもらいました。受診したら、少し見通しが立つようになり、これを機会に、病気を理由として休職を決めました。このロービジョン外来を見つけたことが全ての始まりでした。
 現在の目の状態は全盲、明るさも暗さも感じません。見えないと目からの情報がないので映像の記憶ができません。記憶が極端に苦手になりました。今日は「音声ペン(タッチメモ)」を利用しながら話します。

2.私の日常
 全く見えませんが、家族の配慮があれば日常生活はできます。
 道具で最初に使いだしたのは携帯電話でした。携帯電話を音声ガイドがでるように設定してもらい、電話ができるようになると、社会との繋がりが保てました。その後も出会う人毎に番号と名前を登録し、私の脳の外部メモリーとしています。
 現在は音声訳された本をCDで聞く時間が一番長いです。聞くには音声再生装置(プレクストーク)を使います。本の選択は主に東京と新潟の点字図書館が紹介してくれた中から選んでいます。去年は 150冊を読みました。
 寝る前には「光メロディセンサー」で消灯を確認します。
 本を読みだしたのは2011年7月に「防災避難マニュアル」を読んで歩行補助具のパームソナーなどを知ったのがキッカケでした。この歩行補助具も愛用しています。

3.復活を目指して取り組んだパソコン
 2010年1月、パソコンのソフトを買いました。
 2月、パソコンでNHKラジオ第2放送「聞いて聞かせて ブラインド・ロービジョン・ネット」が遡って聞けるようになり、貪って聞きました。この年は就労支援の工藤正一さんによる「完全マニュアル中途視覚障害からの再出発」と長野県の広沢里枝子さんによる「ピアカウンセリング」と私と同じ年齢の岩井和彦さんによる「15歳の弁論」に励まされました。
 遡って聞いた2008年の放送に「検証ガイドヘルプ事業」があり、この放送をICレコーダに収録しパソコンで文章にすることによって、タッチタイピングもできる様になりました。文字入力の習得が先ではなく、楽しみを生み出すために操作を憶えるのが先。入力技術は後からついてきました。
 一生懸命にやることができると寂しさが一機に吹っ飛びました。入力ができたらメールも可能になり、市政モニターになりました。町内や市内外のまちづくり活動に居場所もできました。

4.ガイドヘルパーさんに導かれて
 私より辛い人の話をして、励ましてくれるヘルパーさんがいました。パソコンに取り組むのを誘発してくれたのもヘルパーさんでした。そして誘導歩行を始めて1年後の2010年9月、ヘルパーさんが、新潟市でのガイドヘルパー養成講座の先生が素晴らしかったと伝えてくれました。
 私は10月から1人で列車に乗り、駅員の誘導を利用して新潟へ行くことを始めました。新潟駅に到着すると、新潟の事業所からその先生がガイドにきてくれました。このときに疑問に思っていた誘導歩行のされ方を学び直しました。階段を上る姿勢を教えて頂きながら、生きる姿勢も蘇ったように思います。 
 翌月にパソコンをきちんと習いたいというと12月に亀田ふれあいプラザで学ぶ機会をセットしてくれました。これが県視障協や点字図書館を頻繁に利用するキッカケになりました。

5.ピアカウンセリングにおける感情の解放
 2011年9月に広沢里江子さんに会いたくて長野県上田市でのピアカウンセリング集中講座に参加しました。障害者自身がカウンセラーとなって、障害者に対して行うものをピア・カウンセリングと言います。ピア・カウンセリングでは、時間を対等に分けて、互いに役割を交換しながら聞きあい、相手に心を寄せて傾聴します。
 内容は精神的相談から自立生活のための学びまで深いそうですが、大切な目的に自己信頼の回復があり、そのために支えあいながら積極的に感情を解放します。これは抑圧してきた感情を解き放つことで、過去に受けた傷を癒し、回復する事により、より合理的な思考を取り戻すのに役立つとの位置づけでなされます。抑圧は例えば「世話になっているのだから」「障害者なのに我儘だ」と自分を押しこんでしまうことです。私も無意識に鎧をまとっていました。感情の解放は障害者だけで行うからこそ、ここなら話せる、ここなら安全だとの気持ちがありました。加えて私はメンバーにも恵まれたと感じています。弱い立場の初心者を受け止める気持ちを全員から感じました。だからできたのだと思います。感謝しています。

(追記:話したことのある受診時の言葉、福祉関係者の話、近所の人たち、NPO法人オアシスなどは省略しました。)

略歴

1950年 現在の居住地で生まれ、育ち、生活。原因不明の視神経萎縮。
2006年 運転断念、07年通院同伴、08年送迎通勤、09年6月ロービジョン外来受診。
    7月に休職、8月に視覚障害者2級、翌年5月1級、7月に定年退職。
2009年 点字図書館登録、NPO法人障害者自立支援センターオアシス会員。
2010年 任意団体上越市視覚障害者福祉協会会員。2011年に社会福祉法人新潟県視覚障害者福祉協会会員、同年に任意団体新潟県中途視覚障害者連絡会会員。
2012年 NPO法人まちづくり学校会員。2013年に任意団体リハ協会会員。
2014年 町内会法人化検討委員。2015年に新潟県中途視覚障害者連絡会 副会長。

過去の講演

過去、大島さんにお話して頂いた講演を記しました。
andonoburo.netに登録しています。参考まで

第201回(12‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  大島光芳
演題:「活力~どうやって生み出すかを考えてみませんか~」 
講師:大島光芳 (上越市)
日時:2012年11月14日(水)16:30~18:00
http://andonoburo.net/on/4578

後記

講演中の大島さんの静かで落ち着いた口調に、凄みを感じました。
本当に見えなくなって6年生と名乗って講演が始まりました。その後は、携帯電話、音声再生装置(プレクストーク)、DAISY図書、点字図書館、「光メロディセンサー」、パームソナーなどについて、実際のグッズなどを参加者に回覧しながら講演が続きました。
その後、パソコン・ガイドヘルパー・ピアカウンセリングについて詳細に紹介がありました。特にピアカウンセリングにおいて、抑圧してきた感情を解き放つ、自己信頼の回復等々、とても意義深い話をお聞きすることが出来ました。感動しました。
大島さんの、益々の活躍を祈念致します。

盲学校理療教育の現状と課題

報告:第242回(16-04)済生会新潟第二病院眼科勉強会 小西 明

済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わりに読んで頂けましたら幸いです。

演題:盲学校理療教育の現状と課題~歴史から学び展望する~
講師:小西 明(済生会新潟第二病院 医療福祉相談室)
日時:平成28年04月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4655

講演要約

1.最近の街中で目に付く店看板
 都会はもとより、地方の新潟市内でも「りらく」「エステ」「てもみ」などの店看板が目立つようになった。新聞の折り込みにも「整体」「全身もみほぐし」などの文字が躍るチラシが見うけられる。エステティックは平成19年(2007)、リラクゼーションは平成25年(2013)に日本標準産業分類に登録された。海外からのインバウンド、企業のメンタルチェック義務化も後押しし、推定一兆円産業ともいわれるようになった。ストレスの多い現代社会で、人々の健康志向や癒しのニーズと合致したのだろう。エステ、リラクゼーション、整体などは、法令で位置付けられている三療(あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう)と違い、広告の制限がないため、消費者が欲しがるクリーンで健康的なイメージを植え付けている。
 また、柔道整復師の開設する「整骨院」「接骨院」から、はり、きゅうと柔道整復をあわせた「鍼灸整骨院」といった新たな開設が増えている。平成10年(1998)以後、鍼灸学校の新設抑制が自由化され、かつ教育課程が時間制から単位制に改訂された産物といえる。

1999年 → 2009年 → 2013年
鍼灸師養成施設数 27校 98校 101校
定員数(晴眼) 835人 6,009人 5,676人

2.視覚障害者と理療
 一方で、伝統ある三療を主とし、それらと関連した手技療法や物理療法、運動療法などを含む非薬物療法の総称を「理療」という。
 古代より視覚障害者の男性は、語り部として、あるいは宗教者、平家琵琶の弾奏者の担い手であったが、江戸時代に入り杉山和一の管鍼術をはじめとする理療の知識や技術を獲得していった。これ以後、幾多の変遷はあったが、理療は伝統的に視覚障害者の主な職業として位置付けられ、現在も中心的な役割を果たしている。視覚障害者により数百年にわたり同一職業が継承された事実については、かねてより賛否はあるが、社会で一定の評価がなされてきたことは特筆すべき事項であり、他国に例がない。現在では至極当然のこととされている視覚障害者の理療業であるが、今日までの過程は過酷を究め困難の連続であった。現在の理療業や教育を支えている様々な制度や慣行は、その時々の先人の並々ならぬ尽力奮闘の成果である。

3.明治維新後の視覚障害者
 明治に入ると、厳格な官位・職階制の下で組織されていたそれまでの当道座は、中央集権体制の確立を目指す新政府の方針と相容れない存在となり、 明治4年 (1871年)の太政官布告をもって解体される。これに伴って杉山和一創設の鍼治講習所も廃止されるとともに、座からの配当で暮らしを立てていた盲人の生活問題が浮上することになった。
 一方、安政5年 (1858年) 7月の長崎に端を発したコレラの大流行に際し、蘭方ないし蘭漢折衷で行われていた当時の医学は無力であった。この教訓から、医学教育を含む学制や近代的な医療制度の確立によって医師の資質を向上させようとする機運が明治政府内に高まった。明治政府は西洋医学を主体とした新制度を、明治7年(1874年)の医制発布により実施した。これにより、あん摩・鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることとなり、三療・東洋医学は排除された。

4.盲唖学校設立運動
 更に、明治18年(1885)には「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年(1911)「按摩術営業取締規則」明治45年(1912)「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになった。
 一例として新潟県では、職業自立を目指す視覚障害者への支援「手に職をつけて自立してほしい」との先達の熱い思いにより、明治40年7月17日、関係者の念願かない「私立新潟盲唖学校」が県知事より学校設置の認可がなされた。つづいて同年10月10日鍼灸冶組合の粉骨の努力と、多くの協力者を得てついに開校式・始業式が挙行された。

5.あはき法と盲学校理療科
1911年     「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」により試験合格か指定学校卒業後、免許鑑札の義務 
1923年     公立私立盲学校及聾唖学校令・規程交付
        「盲学校ノ修業年限ハ初等部六年、中等部四年ヲ常例トス
         盲学校ノ中等部ヲ分チテ普通科、音楽科及鍼按科トシ・・・」
1947年12月   業界、教育界、視覚障害者団体の業権擁護運動
1948年4月   小・中学校、盲・聾学校義務制
1948年5月   高等部別科(2年)、本科(3年)、第一部専攻科(2年)が設置
1973年4月   改正理療科課程の設置 普通科・本科保健理療科,専攻科理療科
1974年3月   高等部別科廃止
1975年3月   高等部第二部専攻科廃止
1990年4月   あはき法一部改正(国家試験制度の導入)
         本科保健理療科 専攻科理療科、専攻科保健理療科 課程開設
1992年2月   第1回 あはき国家試験 開催

6.視覚障害者の理療業
就業あはき師の推移 (2014 衛生行政報告より)

あマ指師 1960年61.6% → 2014年23.0%
はり師 1960年46.3% → 2014年13.1%
きゅう師 1960年43.0% → 2014年13.4%

就業視覚障害あはき師の割合及び数は、晴眼あはき師とは逆に年々減少している。背景として視覚障害あはき師を養成する全国盲学校、国立リハビリテーションなどで在籍者の減少がある。あはき師免許取得後の進路においては、平成15年度と比較して盲学校普通科卒業生の内、盲学校上級課程進学者(専攻科課程)は82人であり、平成25年度はそれからほぼ半減している。専攻科理療科は、平15年度卒業生は304人であり、平成25年度と比較して 20%減少している。就職が143人で、64.3%を占めている。企業内ヘルスキーパーや訪問マッサージの会社に就労している。
また、開業は37人で12.2%であったものが、平成25年度は率にして半減している。

7.視覚障害者団体の動向(日本盲人会連合の提案)
(1)あはき法18条の2廃止
ア あはきの社会的信頼を高め、資質向上を図る。
イ 中卒失明者は激減している。例外措置として高卒並みの学力として認め、専攻科に入学させる。
ウ 理療科教員の身分保障を検討する。
(2) あはき法19条死守と視覚障害あマ指師に対する支援
ア 全国の専門学校であマ指師養成課程新増設が続発している。
イ 19条をいつまで保てるか。関係者のコンセンサスは得られるか。
ウ 視覚障害者あマ指師が職業自立するための支援策を実現する。

8.検討事項
・盲学校生徒、保護者、業界を交えた地域での、18条の2、19条に係る検討。
・視覚障害あマ指師が職業自立するための支援策を現行法で実現するための検討。
・理療を含めた視覚障害者の職域拡大と社会で活躍する人材育成。ビジュアル社会の少数派への理解。幼児・児童(低発生頻度障害0.01%)~成人まで。

◎盲学校の存在意義は、視覚障害者一人一人の夢を実現するためにある。理療を目指す視覚障害者は少なくはなったがゼロではない。理療を盲学校に導入した時代と現在では隔世の感はあるが「視覚障害者の職業自立」は、時々の先人の刻苦奮闘、愛情の賜物により今があることを確認したい。

略歴

1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
2015年 済生会新潟第二病院医療福祉相談室勤務

後記

これまで聞いたことのない理療科の歴史と現状でした。
・あはき19条、初めて知りました。
・晴眼者がマッサージをやりがいのある職業として意欲的に取り組んでいる一方で、視覚障碍者が止む無くあはきを選択しているという一面も知りました。
・晴眼者は、国家資格でないため宣伝ができること、一方あはきは国家資格であるため宣伝ができないこと
・視覚に不自由のある人の職業として「あはき」(あんまマッサージ指圧・鍼・灸)のみでなくIT関係も期待できると思っておりましたが、最近は視覚情報化(ビジュアリゼーション)のためこの分野への進出が厳しいという現実も知りました。
 実際には各団体のロビー外交などが影響しているのでしょうが、何か理不尽さを感じながら拝聴しておりました。
 視覚障害者の就労問題は、大きな課題です。まだまだ勉強しなければならないことが多いことを改めて知りました。

過去の講演

@過去、小西先生にお話して頂いた講演を列記致しました。
andonoburo.netに登録してございます。参考まで

第226回(14‐12)済生会新潟第二病院眼科勉強会
演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~
講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
日時:平成26年12月10日(水)16:30~18:00
http://andonoburo.net/on/3381

第207回(13‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「インクルーシブ教育システム構築と視覚障害教育~盲学校に求められるもの~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校:校長)
日時:平成25年5月8日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/1946

第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3324

第130回(07‐1月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
日時:平成19年1月10日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3488

第69回(2002‐2月) 済生会新潟第二病院 勉強会
演題:「縦断資料からみた視覚障害児の運動発達」
講師:小西 明(新潟県立教育センター)
日時: 平成14年2月13日(水)16:00~17:30
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演抄録】
視覚的なハンディキャップが、視覚障害児の体力や運動発達のどのような側面に影響を及ぼすかを調べ、指導上の基礎資料を得るために、新潟盲学校に保存されているスポーツテストの縦断資料を検討した。その結果、男子生徒の形態の発育水準は普通児と変わらないが、全身運動の発達は低水準にあることが分かった。

クールビズ実施のお知らせ

当院では環境に配慮し下記期間中、クールビズ(ノーネクタイあるいはノー上着等の軽装)での勤務を実施させて頂きます。
皆様のご理解とご協力を、お願い申し上げます。

実施期間:2016年5月1日〜9月30日まで

盲学校理療教育の現状と課題~歴史から学び展望する~

案内:第242回(16-04)済生会新潟第二病院眼科勉強会 小西 明

演題:盲学校理療教育の現状と課題~歴史から学び展望する~
講師:小西 明(済生会新潟第二病院 医療福祉相談室)
日時:平成28年04月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4572

講演抄録

 三療(あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう)を主とし、それらと関連した手技療法や物理療法、運動療法などを含む非薬物療法の総称を「理療」という。

 古代より視覚障害者の男性は、語り部として、あるいは宗教者、平家琵琶の弾奏者の担い手であったが、江戸時代に入り杉山和一の管鍼術をはじめとする理療の知識や技術を獲得していった。これ以後、幾多の変遷はあったが、理療は伝統的に視覚障害者の主な職業として位置付けられ、現在も盲学校の職業教育として中心的な役割を果たしている。賛否はあるが、視覚障害者によって数百年にわたり同一職業が継承され、社会で評価されてきたことは特筆すべき事項であり、他国に例がない。ところが近年、盲学校高等部普通科在籍者及び中途視覚障害者入学希望者の減少、障害の重度化・多様化による理療以外の進路選択などにより、結果として理療科在籍者の減少が続いている。

 一方、高齢者増による医療制度改革、晴眼者のはり師・きゅう師・柔道整復師の増加、日本標準産業分類にエステティック業やリラクゼーション業が設けられるなど、視覚障害理療師を取り巻く状況は厳しさを増している。

 ここでは、①日本で視覚障害教育が創始された、明治13年(1880)京都盲唖院、明治14年(1881)楽善会訓盲院(現:筑波大学付属視覚特別支援学校)から現在までの理療教育制度と背景となる社会状況の概観 ②盲学校理療科が抱える指導内容、修業年限、進路開拓、卒後研修などの課題 ③学校規模、教員養成システム、専攻科の大学編入、視覚障害者団体の動向など現在検討されている事項を取り上げ、今後の理療教育の在り方を展望したい。

略歴

1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
2015年 済生会新潟第二病院医療福祉相談室勤務

ネット配信について

「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により実況ネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ

報告:第241回(16‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 (関 恒子)

演題:「『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ」
講師:関 恒子(長野県松本市)
日時:平成28年03月09日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4597

講演要約

1) 発症と治療
私は20年前、まず左眼に、その半年後右眼にも近視性新生血管黄斑症と診断され、発症から各々1年後と2年後に黄斑移動術を受けた。左眼は期待した結果が得られず、合併症や再発の為に術後3年間は入院手術を繰り返したが、6年を過ぎた頃漸く安定した。幸い右眼は術後視力が改善し、再発もなかった。しかし現在は両眼共網膜萎縮の進行により0.1~0.2に低下し、目下の悩みは進行しつつある視野欠損である。

私が発症した20年前は黄斑変性症やロービジョンという語はまだ普及しておらず、何の知識もなかったので、視力低下の可能性があることを告げられた時の驚きは非常に大きかった。また今と違って確立した治療法がなかったことが私に二重の打撃を与えた。私がまだ予後不明の黄斑移動術を受ける決意をしたのは、視力の低下を放置することが何よりも辛かったからで、治療が受けられるということは当時私の大きな救いとなった。

2) 私の挑戦
手術によって左眼は新たな視野の欠損や、様々な見え方の不具合が生じたが、右眼は一時期0.7位まで改善し、私の生活を向上させてくれた。目を大切にする為に目を使うのを避ける人もいると思うが、私は改善した視力を有効に使うことを考えた。視力低下を告げられた時、私の最初の恐れは文字が読めなくなる事と外出が困難になる事だった。“再発によって再び視力が低下するかもしれない。それなら見えるうちに大いに読書や外出をしておこう”と私は考えた。私は近くの大学に通って全くの専門外であるドイツ文学を学び、多くの作品を読んだ。外にも出て見えなくなるかもしれない時の為に外界の物を心して目に焼き付けてきたつもりである。

また私は長年フルートのレッスンを受け続けてきたのだが、術後視力が改善したといっても中心近くの暗点の為に並ぶ音符を即座に読み取ることができず、初見の演奏はできなかった。暗点を追い払うように意識して見なければ見えない。読書も拡大鏡や電子ルーペが必要だった。一旦はレッスンを止めることを考えたが、耳で曲を覚え、楽譜は確認に使うことにし、フルートの先生のご理解を得て今も続けている。目が正常だった頃は耳より目を優先させていた為に、自分の音色に耳を傾け心をこめる事がおろそかになっていたことを反省し、目が悪くなったことが上達の妨げになるとは限らないと今では思っている。私にはまだ耳があるとフルートが教えてくれたような気がする。

私が特に意欲をもってしていることに毎年の滞在型海外旅行がある。旅行社のツアーに参加するのではなく、自分で計画し、単身3,4週間滞在するのだが、旅行には少しだけ目的を持たせている。例えば、この3年間は英国に行っているが、アガサ・クリスティやコナン・ドイルをテーマにしたり、英国流の日常生活を体験する為にホームステイをしたりである。この数年特に視力低下した私が海外に出るには当然様々な困難がある。単眼鏡とiPadを駆使しながらの移動はストレスが多いし、正しい乗り物に乗れるか、いつもハラハラしている。標示や看板が見難い為に乗り継ぎに十分すぎる時間をとったり、ネットで購入できる券類は日本国内で取ったり等、現地での困難を避ける為の対策も必要である。近年はユニバーサルデザイン化が進んできていることを各地で実感でき、とても嬉しい。

3) 終わりに
ドイツ文学もフルートも海外旅行も、全てを私は挑戦と思っている。見たい物が見えなくなるその時まで、できるだけ行動の幅を狭めない為に今の自分にどこまでのことができるか挑戦し、自分を試しつつ来たこの十数年は、平凡ではなかったけれど、私にとって決して無意味なものではなかったと確信する。
最後に、見たい物が見えなくなった時にはどうなるのか、演者の拙い問いに温かく答え、教えてくださった障害を持つ参加者の皆様に感謝致します。

略歴

富山大学薬学部卒業。薬剤師。
信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。薬品会社勤務。退社。
1996年左眼に続き、右眼にも近視性黄斑症を発症。
1997年と1998年に黄斑移動術を受ける。
松本市在住。趣味:ドイツ文学研究、フルート演奏、英国文化にも憧憬を持つ。

後記

 本勉強会には何名かの方が、数度にわたり講師を引き受けて頂いています。今回の関さんもその中のお一人で、今回が5回目の講演でした。ご自身の経験を理路整然とお話しして下さいます。
 視力悪化が進行していく時の不安、大きな手術を受ける時の決心、見えているうちにしている幾つかの挑戦(ドイツ文学、フルートの演奏、海外旅行)の話は素晴らしいものでした。
 講演後に、関さんが参加された視覚障害の方々に、「どういうときが一番辛かったですか?」「見えなくなってからでも楽しいことはありますか?」という質問をして、その受け答えはとても印象的でした。
 挑戦のお話の続きをお聞きしたいと思いました。関さん、今後ますますご活躍ください。

これまでの講演要約

これまで関恒子さんがお話しして下さった講演要約を以下にまとめました。
=====================================
第216回(14‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
講師:関 恒子 (松本市)
日時:平成26年2月12日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/2512

第187回(11‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「患者から見たロービジョンケア―私は何故ロービジョンケアを必要としたのか?」
講師:関 恒子 (長野県松本市)
日時:平成23年9月14日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/4513

第163回(09‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「賢い患者になるために 視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者)
日時:平成21年9月14日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/4521

第135回(07‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
講師:関 恒子(患者;松本市)
日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00
http://andonoburo.net/on/4530

『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ

案内:第241回(16‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 (関 恒子)

演題:「『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ」
講師:関 恒子(長野県松本市)
日時:平成28年03月09日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4488

抄録

 私が近視性黄斑変性症を発症してちょうど20年、左眼、右眼に黄斑移動術を受けてからそれぞれ19年、18年になる。ある日見つけた視界の中心の小さな歪みは次第に眼鏡の真ん中に拭っても消えない水滴が付いているかのようにかすみ、やがてそれははっきりした中心暗点となっていった。強度近視を持っていたもののそれまで何の不便もなかったのに、左眼に続き半年後に右眼にも発症したため、日常生活さえ脅かされるような不便さを感じ、この頃の不安はとても大きかった。中心暗点に邪魔されて見たい物がよく見えない。自然に直視すると、周りの不要な物は見えても見たい物は見えないので、先ず暗点を追い払い、周辺視野を使って見るようにしなければならない。つまり見たいという願望を持ち努力しない限り物は見えてこないのである。

 この状況をなんとしても改善したかった私は、当時治験中の黄斑移動術を受けることを決めた。新しい治療法との出会いは、私に希望を与え、結果のいかんに関わらず、大きな精神的救いとなった。術後合併症や再発のために入退院を繰り返し、術後生じた不具合な見え方に不満を感じることはあったが、術前より視力は改善し、右眼は再び中心で物を見ることができるようになったことで、私のQOLは非常に向上した。私はこの視力を精一杯有効に使うことを決意し、拡大鏡を使って読書量を増やし、景色も以前より心して印象深く見てきたつもりである。

 しかし最初の手術から19年経過した今、暗点は周辺から中心に及び、私は「見たい物がどうしても見えない」状況に近づきつつある。発病を知り、不便さをさんざん嘆いていた頃より症状はかなり深刻である。だが私の日常を見ると、確かに不便さは大きくなっているに違いないが、初期のような嘆きはなく、行動もそれほど制限されていない。これは自分の障害に対する意識変化と補助具の進化、ロービジョンに対するリハビリテーションの賜物であると思っている。しかしこの先自分がどこまで障害を受容できるかわからない。

 勉強会では見え方の変化の中で感じてきたことや、目が悪くなったからこそ見えてきたもの、これまでの私の挑戦等を語ってみたい。

略歴

富山大学薬学部卒業。薬剤師。
信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。薬品会社勤務。退社。
1996年左眼に続き、右眼にも近視性黄斑症を発症。
1997年と1998年に黄斑移動術を受ける。
松本市在住。趣味:ドイツ文学研究、フルート演奏、英国文化にも憧憬を持つ。

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