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これまでのこと、これからのこと

案内:第265回(18-03)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (最終回)

日時:平成30年3月14日(水)16:00 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
演題:「これまでのこと、これからのこと」
講師:安藤 伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
http://andonoburo.net/on/6388

開始時間・会場がこれまでと異なります。ご留意ください。
要:事前登録 どなたでも参加できる会です。参加無料

講演抄録に代えて

 本当の患者さんの声をこれまで聴いたことがあるのだろうか?そんな思いになったのはこの勉強会のお蔭である。外来では毎日多くの患者さんと会話しているのに、、、、、

 済生会新潟第二病院眼科勉強会は、1996年(平成8年)2月に当院に赴任して間もない6月から月一度、スタッフと一緒に開始した勉強会である。どなたでも参加できる、話すテーマは何でもあり、新潟から全国に向けた情報発信、スポンサーに頼らないをモットーに、気が付けば21年10か月の長きにわたり毎月続けきた。私はこの3月で済生会病院の定年を迎えることになり、今回が最終回となった。

 これまで延べ300名近くの演者が登壇、半数は当事者本人や家族が経験を語った。残り半分は医師や看護師・教育者など視覚障害者のサポーターがご意見を語って勉強会を盛り上げてくれた。いずれも教科書には載っていないそれぞれの立場での本音が述べられた。

 振り返ってみると、1996年当初、会の案内は一人一人にファックスで行っていた。2001年1月からは案内をメールで配信した。(この勉強会とは別に、2001年から毎年夏に新潟ロービジョン研究会と称して全国から演者を招いて200人規模の研究会を始めた。)

 2001年11月から感想も加えて勉強会講演要約を私が報告するようになった。2003年7月から毎年新潟県立新潟盲学校の生徒さんによる弁論大会(新潟盲学校弁論大会イン済生会)を始めた。2003年から毎年10月は目の愛護デーに因んで眼科医による目の講演会(目の愛護デー講演会)を開始した。

 2004年7月に第100回を迎えた。いつの間にか勉強会の演者は全国から招くようになった。2004年8月から報告は演者の方ご自身に要約を書いて頂き配信するようになった。2012月10月に第200回に達した。

 本勉強会で語られた多くの方から貴重な講演により、私自身多くのことを学んできた。これだけの回数を重ねた勉強会の教訓を1時間足らずの講演で語り尽くすことは私には出来ない。今回は、これまでの講師の方、勉強会に参加して下さった方、遠くから声援を送ってくれた方、そして勉強会を支えて下さったスタッフの方々に感謝し、今の私の気持ち、これからのことなどを語りたいと思う。あまり期待せず、ご参加頂ければ幸いである。

略歴

安藤伸朗(あんどう のぶろう)
1971年3月 青森県立八戸高校卒業
1971年4月 新潟大学医学医学進学課程入学
1977年3月 新潟大学医学部卒業
    5月 新潟大学眼科学教室入局
1979年1月 浜松聖隷病院勤務(1年6ヶ月)
1987年2月 新潟大学医学部講師
1991年7月 米国Duke大学留学(1年間)
1996年2月 済生会新潟第二病院眼科部長
2004年4月 済生会新潟第二病院第4診療部長
2018年3月 済生会新潟第二病院 定年退職予定

【事前登録】 済生会新潟第二病院眼科勉強会(最終回)
会場の準備の都合もあり事前登録制に致します。
申込期限:3月5(月)
申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗
e-mail gankando@sweet.ocn.ne.jp
Fax 025-233-6220
(可能な限り、メールでの連絡をお願い致します)
***************************************************
氏名~
所属(勤務先)~
職業~
住所~都道府県名
     新潟県の方は、町村名をお願いします。
連絡方法
e-mailアドレス~
Fax番号~
****************************************************
注:事前登録をして頂いた方には、3日以内にお返事致します。3日を過ぎても当方からの連絡がない場合は、問い合わせください。
注:専門の職員はおりません。電話でのお問い合わせには応じることが出来ません。

勉強会報告

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
1)ホームページ「すずらん」
 新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン
教室ホームページ
 http://occhie3.sakura.ne.jp/suzuran/
2)済生会新潟第二病院 ホームページ
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
3)安藤 伸朗 ホームページ
http://andonoburo.net/

研究情報の公開について(オプトアウト)

当院は下記の研究を実施しています。この研究の対象者に該当する可能性のある方で、診療情報等を研究目的に利用または提供することを希望されない場合は、下記PDF内の問い合わせ先にご連絡下さい。

視覚障害者支援における課題の変遷

報告:第261回(17-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会 仲泊 聡

日時:平成29年11月08日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
演題:「視覚障害者支援における課題の変遷」
講師:仲泊 聡(理化学研究所 研究員;眼科医)

講演要約

 私は、ごく普通の眼科医としての教育を受けたのち、1995年に神奈川リハビリテーション病院に勤務するようになって以来、20年余りを視覚障害者の皆さんとともに歩いて参りました。これまでに私が見聞きし、働きかけてきた視覚障害者支援の現場について、この機会にまとめてみました。まず、20世紀に起きたこと、そして、21世紀になってからは概ね10年ごとに区切り、最後には2021年からの10年についても展望したいと思います。

 私が研修医をしていた頃、白内障手術に大きな変革の波が来ていました。そして、その技術が日に日に改良され、どんどん素晴らしい技術に発展する時代を過ごしてきました。私の同僚たちは、すべて手術に魅了されていきました。じつは、私が眼科医を目指したのは、分子生物学にハマって生化学教室に出入りしていた学生時代に、視神経再生の研究をしていた眼科の大学院生に出会ったのがきっかけでした。だから、卒業したら「研究」ができると思っていました。ところが周囲は手術一辺倒で、ちょっと違うなーと感じていた頃に、指導教授から研究テーマが与えられました。それが、なんと「大脳での色覚がどうやって生まれるかを調べよ」という課題でした。そこには、分子生物学とはまた違う魅惑の「脳科学」の世界が広がっていました。そして、その研究を深めるために私は神奈川リハビリテーション病院に赴任しました。

 ところが、そこで出会ったのは、大勢の視覚障害者の皆さんでした。正直言って「えらいところに来てしまった」と思いました。なぜなら、視力をよくするのが眼科医の仕事だと刷り込まれて6年もたっていましたので、治療ができない目の見えない患者さんというのは、私にとっては「申し訳ない」という以上の「恐ろしい」対象となっていたからです。しかし、そのような環境に私は13年も身を置くことができました。それは、慣れたということでなく、素晴らしい視覚障害者の友人をたくさん持つことができたからだと思います。目の不自由さを乗り越え、社会復帰している方達は、一様にコミュニケーション能力に長けた聡明な紳士淑女でした。そして、その病院と併設していた七沢ライトホームの職員のおじさんたちから私は多くのことを学ばせていただきました。

 20世紀の最後の5年を私は、そこで過ごしました。その期間は、実は視覚障害者支援のこれまでで最も元気な時代の最後のときだったのです。ライトホームの利用者さんの主な疾患は、ベーチェット病、網膜色素変性症と先天眼疾患でした。皆で登山を楽しむこともありました。しかし、世界ではその背景として大変な思想の転換が生じていたことを当時の私は知る由もありませんでした。戦後から障害者を庇護する政策が当たり前に続けられてきたなかで、1964年の世界盲人福祉協議会での「盲人の人間宣言」で、この庇護政策を『これほど盲人の人権を無視したシステムはない』と批判する方向性が打ち出されていました。

 ライトのおじさんたちは、その動きを察知していました。そしてあの頃、私に課題は、1) 手帳の有無による大きな格差 2) 点字・白杖などステレオタイプな対応 3)障害者は守られるべきものと思われていること 4) 軍人になれなかった障害者に対する差別の因習 5) だから障害者にはなりたくないと手帳申請しない人がいること 6)障害者には経済的支援さえすればよいという行政等にあると聞かされていました。

 21世紀になるとさすがの私もその異変に気づくようになりました。このままだと視覚障害者支援システムが崩壊してしまうという危機感をライトのおじさんたちと共有しました。そして、実際に障害者支援施設をゆるがす制度改革が次々に始まっていきました。措置に基づいて行われていた支援が、支援費制度になり、そして障害者自立支援法が2006年に施行されました。ライトホームの安泰の時代から徐々に入所者への対応の仕方が変わり、そして希望者激減の時代を私は彼らとともに歩きました。制度が庇護から自立へ変換するなかで、お金を払えない当事者や先を見通せない当事者が引きこもり、盲学校やリハ施設から姿を消していったのです。

 そのような中で世間に先駆けていち早く行ったことは、地域での連携でした。現在の神奈川ロービジョンネットワークの前身となる会合を最初に開催したのが1999年2月のことでした。県内の4つの大学病院と県眼科医会に呼びかけ、それまでの教育と福祉主体の視覚障害者支援から医療と連携した支援体制の必要性を訴えました。なぜなら、視覚障害者の8割が眼科には通院しているという統計があったからです。リハの必要性を訴える場として、医療現場は欠かせないと考えたわけです。

 この時代、私たちはこの先リハをする専門職がいなくなってしまうと考えていました。利用者が減るということは、行政から見れば需要がなくなったと解釈され、職員数が減らされます。自立支援法で障害の範囲が広がり、その区別がなくなったことから様々な特性を持った障害者が集まってきます。利用者の減少に歯止めをかけたくて施設側もそれまで拒んできた慢性疾患患者、高齢者、知的障害者を利用者として認めざるをえなくなっていきます。そして、それによって職員の視覚障害に対する専門性が奪われ、そして育たなくなっていくと考えました。

 私は、2008年に神奈川を離れ、所沢の国立障害者リハビリテーションセンターに異動しました。異動の動機は一言では言えませんが、そのなかにこの重大問題をなんとかしなければという気持ちもありました。そして、そのポストを利用して学会などに働きかけ、教育・福祉の医療との連携を呼び掛けてきました。1) スマートサイト 2)中間型アウトリーチ支援 3) ファーストステップ と様々な仕込みをしてきました。そして現在を含む2011年からの10年には、日本眼科医会や日本眼科学会が福祉・教育との連携を真剣に考えてくれるようになり、この考えが当たり前のこととして受け止められるようになりました。

 そして、次の10年、何をすべきかについて考えました。現在、大勢の同志が立ち上がり、視覚障害者支援のサービスの質と量を担保するために働いてくださっています。しかし、それでもなお、そのサービスの行き届かない地域があります。これをなくすのは一筋縄ではいきませんが、現在のICT技術は、ほんの10年前には想像していなかったほどに発展しています。これを使って遠隔でも支援ができないものかと現在はその技術開発に取り組んでいます。さらに、その方向性を確認するために、障害者権利条約の26章のリハビリテーションのところを読み解いて、1) 障害者相互の支援、2) できるだけ早期に、 3) できるだけ近くで という3つのキーワードを指針として、
これからの計画を立てていきたいと思っております。

 今年の12月1日には、神戸アイセンターがオープンします。NEXT VISIONという公益法人の活動として、上述の方向性をしっかりと見据えた活動をしてまいりますので、皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

略歴

1989年 東京慈恵会医科大学医学部卒業
1995年 神奈川リハビリテーション病院
2003年 東京慈恵会医科大学医学部眼科講師
2004年 スタンフォード大学心理学科留学
2007年 東京慈恵会医科大学医学部眼科准教授
2008年 国立リハ病院 第三機能回復訓練部長
2010年 国立リハ病院 第二診療部長
2016年 神戸理化学研究所 研究員

後記

 大学の准教授から国立障害者リハビリテーションセンター病院の部長職を8年間務めた後、研究所の一研究員に身を投じた気概の眼科医仲泊聡先生が、ご自身の半生と
視覚障害者支援の歴史を絡めた素晴らしい講演でした。
 得てして大真面目に本筋を語るよりも、ポロリと本音を語る場面は人を引き付けます。私は冒頭の5分間で魅了されてしまいました。・視力をよくするのが眼科医の仕事であり、どれだけの視力を良くしたかが通信簿、・視力の悪い患者さんは、申し訳ないというよりも怖い存在、・視力の不自由さを乗り越えた(目の前にいる)患者さんは素晴らしい人たち、、、、、
 講演では、目の不自由さを乗り越え、社会復帰したコミュニケーション能力に長けた聡明な紳士淑女、そして病院に併設されていた七沢ライトホームの職員のおじさんたちから学んだこと断りながら、障害者を庇護する時代から自立支援への変革の理念と問題点等々が語られました。難しいイデオロギーや言葉・文章でしか得られなかった事柄が、平易な言葉で皮膚感覚で語られました。さらには現在の問題点、今後の展望も盛り込んだ膨大な講演でした。
 今後はNEXT VISIONという公益法人に身を置き活動していかれるとのこと、益々のご発展を祈念しております。

案内:ロービジョンケアを始めて分かったこと

案内:第263回(18-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会 加藤 聡

演題:ロービジョンケアを始めて分かったこと
講師:加藤 聡(東京大学眼科)
日時:平成30年01月10日(水)16:30 ~ 18:00
会場:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/6237

抄録

 私は東大病院眼科外来でロービジョン外来を立ち上げて16年、日本ロービジョン学会の評議員になって8年、同じく理事長になって5年が経ち、眼科医として思ってもみなかったことのいくつかに遭遇しました。それらを思いつくままに皆さんに知っていただきたいと思っています。
 私は眼科医として毎日、たくさんの患者さんを診ています。その一方、ロービジョンケアを始めて福祉の方々とも知り合う機会や、その方面の勉強も行うことも増えてきました。しかし、多くの眼科医を含めた医療関係者は福祉については不勉強です。その理由の一つに医師、看護師、視能訓練士も含めての医学教育の場では、福祉について学習する機会が非常に少ないことが挙げられます。医療と福祉は本来は継続すべきものなのですが、様々な点で差異が生じています。例えば、医療では患者は病院に自由アクセスできるのに対し、福祉では行政上の垣根を超えることができないなどです。
 日本でも、ロービジョンケアがずいぶん行われるようになってきたと思っています。しかしその一方、2017年のオランダで行われた国際ロービジョン学会で日本人のロービジョンケアに携わっている人を一番驚かせたことは、世界中195か国中178か国(91%)でロービジョンケアに対するデータがあるのに対し、日本ではロービジョンケアのデータがとられていない数少ない国に分類されていたことだと思います。ロービジョンケアに対するデータというのは医療分野がとるべきものなのか、福祉分野でとるべきものか、日本ではその方向性もはっきり見えできていません。
 我々眼科医はロービジョンケアの臨床論文を書くときにその対象として、patients with low visionとしますが、福祉や教育の方々の論文ではpeople with low vision
またはchildren with low visionとの記載を散見します。私たち、医療関係者はロービジョンの人を患者として見ていることは必ずしも良いことだとは限らないようにも思っています。
 以上のように医療と福祉の狭間に苛まれながら、医療側からのアプローチの限界と戦っている私の話をしたいと思っています。

略歴

加藤 聡(カトウ サトシ)
1987年 新潟大学医学部医学科卒業
     東京大学医学部附属病院眼科入局
1996年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
1999年 東京大学医学部附属病院分院眼科講師
2000年 King’s College London, St. Thomas’ Hospital研究員
2001年 東京大学医学部眼科講師
2007年 東京大学医学部眼科准教授
2013年 日本ロービジョン学会理事長
  現在に至る

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