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「視覚障がい者としての歩み  ~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら~」

報告:第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 青木学

演題:「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
講師:青木 学(新潟市市会議員) 
日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
http://andonoburo.net/on/3401

済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

講演要旨

1. 視力を失って
 小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。

2. 盲学校入学
 中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。
 ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。

3.盲学校の外の世界へのあこがれ。
 楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。
 そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。

4. 大学進学への挑戦
 1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。
 そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。

4. アメリカ留学
 卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。
 アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。
 こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。

5.日本に帰国し市議会へ
 社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。
 私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。

6.進む法整備
 国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。
 私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。
 こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。

略歴

1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
     新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、京都外国語大学英米語学科。
1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
    現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中。
http://www.aokimanabu.com/

後記

 青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。
 目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。
 幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。
 青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。

「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」

報告:第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 大石華法

報告:第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  大石華法
演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00 
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
http://andonoburo.net/on/3418

講演要約

1.現在化粧の動向と視覚障害者
 化粧は、顔の容姿を美しく装うだけのものではなく、社会人女性としての「身だしなみ」と言われるまでになっている。現在では1人の成人した女性として社会に参加するには、「身だしなみ」の1つとして化粧することが習慣化されている。
 女性が美しくなることに関する研究や商品開発は止まることを知らず、綺麗な容器に身を包んだ化粧品や美容アイテムが次々と生産されて女性を魅了し続けている。昨今では若者女性の間で,目を大きく魅力的に見せるアイメイクの流行により、マスカラ、付け睫毛、アイライン、カラーコンタクトレンズなどを着用し、華やかで個性ある化粧を施す女性が多くなった。
 今や化粧は社会人女性としての「必須アイテム」となり、「アイデンティティ」の確立に寄与しているとさえいわれている。また化粧の本格的な習慣化は、成人としての社会参入条件であるとの指摘もある。これらの報告から現在社会における化粧は、女性にとって、自身の生き方や社会生活と大きく関連するものであることが指摘できる。

2.化粧と視覚障害者の現状
 化粧社会と言われるなかで、視覚に障害を有することで自分自身の顔を鏡で見ることが不自由な女性は、化粧をしなくなる傾向がある。その背景には、視覚に障害を有しながらも化粧を試みるが、他者からの低い評価を受けたことで自信を失い、自己肯定感が低くなるなどの心理的な影響によるものが多い。低い評価の例として、「化粧がムラになっている」「チーク(頬紅)やアイブロー(眉毛)が右対称ではない」「口紅がはみ出している」「化粧が濃すぎる」などがあげられている。
 このような低い評価を受けたことで,化粧することに対して不安や恐怖を感じて,化粧をしなくなる傾向にある。また、化粧したくてもできないことでコンプレックスを持つ女性も多い。これらから、視覚に障害を有する女性にとって化粧をしたくてもできないことは、化粧社会の女性の中で疎外感を持つことにつながり、女性性を低下させる要因の1つになっているのではないかと考えた。

3.視覚障害者に向けた化粧支援
 演者は化粧活動の中で、化粧したくてもできないことでコンプレックスを抱えている視覚障害者に多く出会った。この出会いがきっかけとなり、視覚障害者に化粧の色彩や仕上がりを音声にした情報を提供することに関心をもった。
 化粧品や色彩などの美容情報を口頭で伝えながら化粧施術をすることで、視覚障害者は自身が化粧により綺麗になっていく工程を化粧施術者の音声情報により認識して,化粧を楽しむことができた.また他者から「綺麗」「可愛い」「美しい」など女性特有の称賛を受けることで自信を取戻し、外出支援に繋がると期待された。
 しかし、この活動には限界があった。それは化粧技術者が視覚障害者に化粧を施した直後の場合では綺麗に仕上がった状態であるが、「食事をすると口紅が落ちた」「汗で化粧が崩れた」など化粧にはパーマネント性がないため、1度化粧崩れしてしまうと「化粧直し」という2次的な支援まで活動が行き届かないことであった。

4.「ブラインドメイク・プログラム」の開発
 そこで演者は、視覚障害者に化粧施術者によって化粧すること自体を抜本的に見直した。視覚障害者が他者からの施しによって化粧されるのではなく、自分自身で化粧ができる「化粧の自己実現」に意義があると考えた。この考えから、2010年に鏡を見なくてもフルメイクアップができる「ブラインドメイク」の化粧技法を開発した。
 そして、化粧の仕上がりは結果主義や成果主義であることから、化粧工程に工夫とテクニックを組み入れた。化粧の仕上がりを「バランスの取れた自然な仕上がり」に見せることを課題として合理的かつ効率的な化粧技術を追求した。この研究から無駄な動きを省いて合理的かつ効率的に鏡を見なくても化粧することができる「ブラインドメイク・プログラム」を完成させた。(映像視聴:12分30秒)

5.障害者ではなく、ひとりの女性として
 ブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性は、「自信が持てる」「外出したくなる」「人と話がしたくなる」(心理的有効性)、「元気になる」「食欲が増す」(身体的有効性)、「周囲の人が親切になった」「声掛けや手引きをしてくれる人が多くなった」(社会的有効性)と述べている。これらから、社会的視点では、視覚障害の女性を"障害者"ではなくひとりの"女性"として認識し、尊重した接し方をしていると考えることができる。また、視覚障害者からの視点では、ひとりの女性として社会的配慮ができるということ、そして社会へ参加する前向きな意思があるという周囲へのアピールになっていると考えることができた。このような取り組みが社会に向けた視覚障害者からの理解を深める1つの活動につながり、彼女たちの声掛けや手引きにつながっていると考えている。

追伸
「理美容ニュース」で、昨年、日本美容福祉学会で発表しましたブラインドメイクの研究が取り上げられて、記事になりました。ご一読いただけましたら幸いです。この発表がきっかけで、今年の秋から、美容専門学校のメイク科で、ブラインドメイクを科目に入れていただくことになりました(大阪市中央区)。私のもう一つの役割として、ブラインドメイクを通して、広く社会に視覚障害者を理解してもらうことと考えています。
http://ribiyo-news.jp/?p=13994

略歴

1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
日本ケアメイク協会 会長(2010年~2014)
http://caremake.on.omisenomikata.jp/

後記

 大石さんは、中央大学法学部出身、理容師の資格を持ち、普段は司法書士として仕事をし、かつ福祉大学の大学院で学んでいます。そして目の見えない方のためのメイクを独自の手法で開発し、広めているのです。浪速っ子。講演は、パワーに溢れていました。ユニークでした。有意義でした。楽しかったですし、元気をもらいました。講演を聞きに来た方々を巻き込み、突っ込みをいれての熱演でした。初めから笑いの連続であっという間の90分でした。
 曰く、・女性には化粧が大事。・化粧のコツは、左右対称にするために両手を使う。・筆より指がいい。・メイクの中心は「目」。・目を大きく見せる・睫毛は長く見せることが大事。・褒める、でも悪いとこはしっかり伝えるも大事。・私は綺麗という自信(勘違い)が大事。・キレイニなることで、社会への参加の機会が増える。・いつまでも異性に対するワクワク感、トキメキ感が大事。・環境や周囲の理解が大事。・福祉関係の人にメイクに関心がない人が多い、、、、、、、、、「小じわが気になるんです」というと、よく「そんなの心配ない。私はもっとある」とか言われてしまう。そんなことを言われたら、(あなたはそれでいいのかもしれないけど、私は嫌だ)と思う。。。。。
 実際のところ、視覚障害者にとって先ずは日常の生活ができるようになることが求められ、化粧は次の段階であろうと思います。化粧品の購入にはお金もかかります。しかし視力を失い多くのことを諦めるようになった方々が、(特に女性の場合)「ブラインドメイク」によって、諦めた多くのものを取り戻せるきっかけになるのではないかと強く感じた次第です。
 大石さんの今後の益々の活躍を応援したいと思います。このプロジェクトが発展し、多くの視覚障害者に希望をもたらしてくれることを祈念します。

『報告:新潟ロービジョン研究会2014 6)シンポジウム 山田幸男』

シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
3)私たちの行っている視覚障害リハビリテーション
山田 幸男
(新潟県保健衛生センター)
(信楽園病院 内科)
http://andonoburo.net/on/3290

講演要約

 私たちのリハビリテーション(以下リハビリ)を始めるきっかけは、糖尿病網膜症が原因で失明した35歳のO君の入院中の自殺です。入院中のO君は奥さんにすべて介助してもらっていました。もし彼が入院中トイレやナースステーションに自分一人で行き、食事も一人で食べることができたら、奥さんは働くことができ、経済的に追い込まれることはなかったのではないか、それには目の不自由な人にもリハビリが必要であると考えました。

 それまでは目の不自由な人のリハビリのあることさえ知りませんでした。彼の死後間もなくして目の不自由な人にもリハビリのあることを知りました。そして10年の準備期間をおいて、1994年に信楽園病院にリハビリ外来を開設しました。私たちのリハビリ外来は、県外からリハビリ専門施設の先生方(清水美知子先生と石川充英先生)に来ていただき、その先生方を中心に、眼科医、内科医が同席して月2回開いています。

 今年は開設して満20年になります。外来受診者は800人、延べで10,000人ほどです。

 リハビリ外来では、就労訓練をのぞいた歩行訓練、ロービジョンケア、音声パソコン・点字指導、進学・就職相談、こころのケアなど広く指導を行い、パソコンや点字、歩行訓練などの頻回に継続して指導の必要なものは、外来のほかに週4回教室を開いて継続的に指導を行っています。

 いままで目の不自由なことが原因で死を考えたことのある人は56%、うつ病・うつ状態になったことのある人がおよそ50%おります。こころのケアは重要です。

 目の不自由な人に欠かせないこころのケアには、私たちはリハビリ外来やグループセラピーに加えて、お茶を飲みながら談笑できる喫茶室を設けて対応してきました。喫茶室には、目の不自由な人のほかに晴眼者や学生なども出入りするので、いわゆるうつ病とはやや異なる視覚障害という疾患のある人に多いうつ・うつ状態の改善には、このような喫茶室も有効と考えています。

 新潟県は広く、また交通の便が必ずしも良くないため、私たちのリハビリ外来を継続して利用することの困難な人が多くみられます。その解決策として開設したのが、県内10数か所のパソコン教室兼喫茶室をもつ姉妹校(サチライト)です。サチライトではパソコン教室を定期的に開いて、パソコン指導や簡単な歩行訓練などもやっています。サチライトでも目の不自由な人や晴眼者が集まって、お茶を飲みながら話に花を咲かせています。こころのケアにも大きな効果がみられます。

 視覚障害者においても高齢化は大きな問題です。とくにロコモティブシンドロームによる転倒、骨折、そして寝たきりです。なかでも加齢による筋肉の減少症(サルコペニア)対策は重要です。

 そこで2014年8月から私たちは、サルコペニア予防としての筋トレ・栄養指導、さらにフットケアなどを含めた転倒予防・体力増強教室を毎月1回開催しています。開催前の私たちの予想では、参加者は10人くらいだろうと思っていたのですが、予想に反して、 70人(晴眼者も含めて)が参加され、そのニードの大きさに驚いています。とくに糖尿病患者では、サルコペニアの併発は血糖の悪化につながるので、その予防は大切と考えています。

 高齢視覚障害者対策は今後ますます重要です。

略歴

山田幸男(やまだ ゆきお)
昭和42年(1967年)3月 新潟大学医学部卒業
昭和42年(1967年)4月 新潟大学医学部附属病院インターン
昭和43年(1968年)4月 新潟大学医学部第一内科に入局。内分泌代謝斑に所属
昭和54年(1979年)5月 社会福祉法人新潟市社会事業協会信楽園病院
平成17年(2005年)4月 公益財団法人 新潟県保健衛生センター
学 会
日本内科学会認定医、日本糖尿病学会専門医、日本内分泌学会専門医、
日本病態栄養学会評議員、日本ロービジョン学会評議員

後記

 視覚障がい者のために築いてこられた素晴らしい「NPOオアシス」の成り立ちを振り返り、多くの示唆に富む講演でした。内科医でありながらロービジョンケアに取り組んだと評価する方もいますが、内科医であればこその発想(体内時計/骨代謝等)は、眼科医では思いもつかないかなり独創的でかつ先駆的な仕事です。糖尿病透析患者Oさんの失明したことによる自殺という事件を、このような形で乗り越えてきた(報いてきた)山田幸男先生、新潟の誇りです。

報告:新潟ロービジョン研究会2014 5)シンポジウム 八子恵子

シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
2)一眼科医としてロービジョンケアを考える
八子恵子 (北福島医療センター)
http://andonoburo.net/on/3277

講演要約

 眼科医になってまもなくから、小児眼科や斜視・弱視といった領域を担当することが多かった私は、眼先天異常や未熟児網膜症、網膜芽細胞腫などによる視覚障害のお子さんを診察する機会があった。それらのお子さんに、屈折矯正眼鏡や弱視レンズ、遮光眼鏡、義眼などを処方し、指導する経験を得た。そして、これらの処方が、「見える」や「見やすい」の喜びを与え、「かわいいね」で表情が明るくなるなど、大きな力を持つことを知った。

これらの経験から私は以下のようなことに気がついた。すなわち、眼疾患の治療が必要ない、あるいは不要となった患者さんにたいしてもやるべきことがある。それらは、眼科医でなければできないことである。しかしそれらは、患者さんの周囲の人の協力があって進むことである。といったことである。

 次に、私は、福島県障がい者総合福祉センターが行っている視覚障がい者巡回相談会における医療相談を担当することになり、この巡回相談会に、県や地方自治体のみならず、県立盲学校、生活支援センターや拡大読書器や遮光レンズを展示する業者など多くの人がかかわっていることや、ピアカウンセラーの存在を知った。そして、これらの参加団体がいろいろな行事ややり方で視覚障がい者を支援していること、しかしその内容を眼科医である私、すなわち視覚障害を持つ患者さんに最も早く、もっとも頻繁に会っている眼科医が知らないということにショックを受けた。そして、視覚障がい者に向けた活動や支援を知り、患者さんに伝え、眼科医も積極的にその役割を果たすためには、これら関連する団体や人と連携する必要があると強く感じ、福島県ロービジョンネットワークを立ち上げることになった。

 福島県ロービジョンネットワークは、設立から8年になり、それなりの活動ができているが、私という一眼科医としてロービジョンケアとどうかかわっているであろうか。大学勤務を辞めて以降、定期的とは言え多施設で診療をしている私は、一施設での系統だったロービジョンケアをできず、外来で出会ったロービジョンの方にすすめたいと思う補装具が多くの施設には用意されていない、しかし、遮光レンズなどは実物を見ないと患者さんに理解していただけず、理解していただけなければ先に進めないのが現状。このような状況でも私がプライマリーあるいは基本的ロービジョンケアをしたいなら、「自分でモノを持って行けばよい」「そうだ、移動診療所だ」となったのも私が年に似合わず、運転好きであったことが功を奏したと言える。

 そんなわけで、私の車の後部座席には、遮光レンズのトライアル、焦点調節式単眼鏡数種、小児の近見視力を測定する視力表、レチノスコープ(屈折検査機器)、模型の眼球(患者さんに主に屈折異常を説明するため)、治療が難しい複視の解消に役立つ遮蔽レンズ(オクルア)のトライアル、クラッチメガネ(手術非適応の眼瞼下垂にたいする対症療法)、義眼数種などなどが乗っている。それらから、ロービジョンの患者さんに、よいのではないかと思われるモノを見、体験していただき、これ!というものがあれば、手帳の有無によるその後の流れを説明、福祉や直接業者などにつなげることになる。もっと多くのものを見たほうがよい場合には、展示会や展示している業者などを紹介するが、その場合も、様々な職種、団体とのつながりが大いに役立っている。

 一眼科医がロービジョンケアにかかわるには、大きなことはいらず、必要としている患者さんに巡り合うこと、そのような患者さんは目の前におり、それに気づくこと、少しでよいから何かを提案し、自分にもできることがあることを知ること、でも、できないことは人に頼ること、そのために多くの人とつながることである。今の私の思いである。

略歴

八子 恵子
1971年 福島県立医科大学 卒業
1972年 福島県立医科大学 助手
1978年 公立岩瀬病院眼科 医長
1980年 福島県立医科大学 講師
1988年 福島県立医科大学 助教授
2003年 福島県立医科大学 非常勤講師
2007年 埼玉医大眼科客員教授
2008年 北福島医療センター 非常勤医師
福島県ロービジョンネットワーク 代表

後記

拝聴した皆が、「これがロービジョンケアの原点だ」と感じた素晴らしい講演でした。
 眼科医として診療に携わる中で、必要と感じた(効果のあった)症例を提示し、「治療が必要がなくなった患者でもやるべきことはある」と断言された。曰く、LVの基本は「気が付くこと、何かを提案すること、自分にもできることがあることを知ること、出来ないことは他人に頼ること」、、、、、
うっ、これは人生の基本か1?

『報告:新潟ロービジョン研究会2014 4)シンポジウム 吉野由美子』

シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
1)ロービジョン当事者として相談支援専門家として我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る
吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
http://andonoburo.net/on/3259

講演要約

 私は、昭和22(1947)年に生まれ66歳になる。生後3ヶ月の時に母が、私の眼が見えていないのではないかと気づき眼科へ、先天性白内障と診断され、生後6ヶ月から7歳までの間に6回に分けて濁った水晶体の摘出手術を受けた。後から知ったのであるが、この時期にこんなに早くから開眼手術を受けられたのは奇跡に近い出来事だったらしい。7歳の時に、16Dぐらいの分厚い凸レンズを処方され、真っ白だと思っていた瀬戸物に細かいひび割れがあるのを見てびっくりした記憶が鮮明に残っている。16歳の時に初めて弱視レンズを紹介され、遠用と近用のメガネを使い分けて見ることを学んだ。その後光学機器の発達の助けを借りて、私の見る能力はどんどん向上した(矯正視力右0.03、左0.2)。

 ところが、35歳の時に突然右目が窓ガラスに水滴がついたような見え方になり、ひりひりした痛みが出るようになった。「失明するのではないか」という恐怖に駆られて、有名眼科をいくつか受診したが、「小眼球で仕方がない」と言われ、「先天的な障害があると治療の対象にもしてもらえない」ことにショックを受けた。幸い右目の症状はそんなに悪くならなかったが、56歳を過ぎる頃から、再び右目の角膜混濁が強くなり痛みも出るようになった。その時に、視覚リハの仕事で知っていたロービジョンに精通した眼科医から、角膜移植の専門医を紹介していただき、目の前の症状を緩和することだけでなく、将来の自分の眼の予後についてや角膜移植の時期など見通しを持った治療とその説明を受けることができた。それと同時に、やはり仕事で知っていたロービジョンケアに精通した眼鏡士から、自分の状態に合った遮光眼鏡を紹介された。

 以上のような自分自身の経験と、幼い頃からのロービジョンの方たちの相談に乗った経験から、医療の中でのロービジョンケアの未来に望むことを以下にまとめた。
1.障害があって元々視力が弱くても、幼い頃からのロービジョンのあるものは、その見え方に依存して生きている。0.01から全盲になってしまうことは、「中途失明」と同じ状態であることを、ロービジョンケアに携わる眼科医がまず理解し、すべての眼科医が理解しているように教育されること。

2.ロービジョンのある方の視力や視野が落ちてきたら、それを「病気」ととらえ、治療の対象と考えて欲しい。また、視力や視野の低下の原因について、きちんとした説明を受けることができるようにして欲しい。

3.その人なりに見えていることの意味を熟知した担当医(ロービジョン専門家)から最先端医療を担う専門眼科の医師にその見え方を維持するための最善の治療を受けられるように紹介して欲しい。担当医と専門眼科医の連携が、いつでもどこにいてもできるようになっていて欲しい。

4.ロービジョンケアを標榜する病院においては、メガネ等の補助具の正しい選定がおこなわれるだけでなく、その使い方のトレーニングが受けられるように視能訓練士等のスタッフを充実させて欲しい。

5.見え方が変化するたびに「失明するかも」という不安に襲われ、生活上の支障も出てくる方たちのために、カウンセラーやソーシャルワーカーなどの心のケアや生活相談に乗れるスタッフの必要性とその育成をロービジョンケアをおこなう眼科医が積極的に主張し、教育をおこなう体制を整えて欲しい。

6.見えないことによって困るのは、日常生活の場面であるから、訪問リハが医師の指示によってできるように、教育現場や在宅の場面、高齢者の施設などに、視能訓練士等が出向いて、視機能検査や、補助具の選定等ができるシステムが確立されるようになって欲しい。
 
 以上、先天のロービジョン当事者の経験と、視覚リハの相談者としての経験から語らせていただいた。

略歴

1947年 東京生まれ 66歳 
1968年 東京教育大学(現筑波大学)付属盲学校高等部普通科卒業
1974年 日本福祉大社会福祉学部卒業後、名古屋ライトハウスあけの星声の図書館に中途視覚障害者の相談業務担当として就職(初めて中途視覚障害者と出会う)
1991年 日本女子大学大学院文学研究科社会福祉専攻終了(社会学修士)
     東京都立大学人文学部社会福祉学科助手を経て
1999年4月~2009年3月 高知女子大学社会福祉学部講師→准教授
     高知女子大学在任中、高知県で視覚障害リハビリテーションの普及活動を行う。
2008年4月~任意団体視覚障害リハビリテーション協会長(現在に至る)

後記

患者さんの生の声を聞いた。吉野さんは、生い立ち・病気のこと・眼科医の言葉に対する感情(気持ち)を披露して下さった。
「治ることは期待しないが、治療して欲しい」「治る見込みのない障害者であっても治療の対象として診て欲しい」「視機能が向上しないと治療の意味がないのか?そんなことはない」「少なくても眼の状態について説明して欲しい」「最善の治療を受けているという確信がないとLVケアは受けられない」「主治医と専門家の連携を。よく話を聞いて欲しい」、、、、、、
それは、すべての医療関係者に聞いて欲しい患者さんの叫びだった。

『報告:新潟ロービジョン研究会2014 3)特別講演:加藤 聡』

特別講演3
「本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望」
加藤 聡(東京大学眼科准教授;日本ロービジョン学会第3代理事長)
http://andonoburo.net/on/3253

講演要約

 日本ロービジョン学会が設立され、田淵前々理事長、高橋前理事長の功績により、ロービジョンケアが眼科医にも認識されるようになり、昨年には保険点数も付くようになった。しかし、本邦におけるロービジョンケアを取り巻く問題点の多さに未だ愕然とする思いがある。本講演では、はじめに日本ロービジョン学会について説明し、次にロービジョンケアを取り巻く課題と解決法、そして最後にロービジョンケアの将来についてお話しする。

1.日本ロービジョン学会
 日本眼科学会のその関連学会23学会の一つであり、2000年に発足し、毎年学術総会を開催しており、その総会長は眼科医のみならず、ロービジョンケアにたずさわる多くの関係者が行っている。学会員の総数は現在約720名で、その三分の一ずつが眼科医と視能訓練士で、残りの三分の一をその他の医療関係者、教育関係、福祉関係の方々で構成されている。

2.現在のロービジョンケアを取り巻く6つの問題
①眼科医療に携わる者(眼科医、視能訓練士)に対して、ロービジョンケアに関して系統だった教育法が確立されていない
②補助具の眼科診療室内での整備が難しい
③保険点数が認められたものの未だ、請求しづらい点がある
④視覚障害による身体障害者等級の線引きの妥当性の検証が未だ不十分なこと、
⑤関連団体との情報の共有性が充分なされていないこと、
⑥本邦内でのロービジョンケアの地域間格差があることである。

 ①では、眼科医療の携わる指導者がロービジョンケアの教育を受けていないことが現状では問題であり、指導者層のロービジョンケアへの関心の向上が必要である。①の影響もあり、一通りの治療が済んだ失明者が眼科医を受診した時に、眼科医そのものが戸惑ってしまうこともある。②では、眼科内では補助具の販売ができず、そのために充分なトライアルセットが完備されていない現状がある。安価で正確なトライアルセットの出現が待たれる。③では、未だロービジョンケアに携わる眼科医が非常勤の場合に算定できないことがある。④では、身体障害者等級決定には科学的に裏打ちされた日常生活の不自由度によるものが理想だが、請求の簡便性とは相容れない物があり、その妥協点を見つけることが必要である。⑤では、ロービジョンケアを実施している施設の取りまとめが、各団体により異なり、視覚障害者に必ずしも正しい情報を提供しているとは言い難いのが現状である。⑥では県によってはロービジョンケアを行っている施設が充足されているのか疑問のところがある。全てにおいて解決策を示すことはできないが、そのような問題点があることをロービジョンケアに携わる者が知っておくことは意義があると考える。

3.今後の展望として
 私が最も期待していることは、再生医療やiPS細胞などの最新治療により得られることになるであろう今まで経験したことのない新たな視機能に対するロービジョンケアの研究である。本来、それらの研究は、最新医療の研究と並行して行われていかなければ、最新治療により受けられる患者の恩恵は最小限のものになってしまう危険性がある。
 それに各県単位であるが、スマートサイトのようなネットワークができ始めていることが、ロービジョンケアの充実に不可欠であることを説明する。また、将来のロービジョンケアの中で今後、重要視すべきことは、視覚障害者の就労の問題である。JAMA Ophthalmolという雑誌の最新号に視力障害者には無職者が多いことが証明されており、この問題が重要性がわかる。
 最後に、私自身が考える本邦でのロービジョンケアのあり方についていくつか提言したい。それらは、
①ロービジョンケアにおいては眼科医のみならずあらゆる職種に協力を仰ぐこと、
②眼鏡店のロービジョンケアへのさらなる介入と全国展開への期待、
③補助具関連企業の世界的標準化、
④特殊支援学校や視覚障害者団体との情報の共有化、
⑤ロービジョンケアに関する研究の推進である。
 どれもすぐに実現できるものではないが、私自身はその実現に向けて努力を惜しまない考えである。

略歴

加藤 聡 (カトウ サトシ)
1987年 新潟大学医学部医学科卒業
     東京大学医学部附属病院眼科入局
1990年 東京逓信病院眼科
1996年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
1999年 東京大学医学部附属病院分院眼科講師
2000年 King’s College London, St. Thomas’ Hospital研究員 
2001年 東京大学医学部眼科講師
2007年 東京大学医学部眼科准教授
2013年 日本ロービジョン学会理事長
2014年 東大病院眼科科長兼任
  現在に至る

『報告:新潟ロービジョン研究会2014 2)特別講演:高橋 広』

特別講演2
 日本におけるロービジョンケアの流れ:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ-平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
高橋 広(北九州市立総合療育センター;日本ロービジョン学会第2代理事長)
http://andonoburo.net/on/3234

講演要約

 私のロービジョンケア(LVC)にかける思いを端的に表現すると、保有視機能を最大限に活用してQOLの向上を目指すものが私のLVCである。

 1994年ある一人の成人緑内障患者との出会いからLVCを知った。日々治療に明け暮れていた私は、患者が希望する社会復帰を支援することができず煩悶していた。その時、知人の紹介で一人の歩行訓練士がこの患者に接したことで、患者は精神的にも立ち直り、社会復帰を果たしていった。その状況をつぶさに見た私は、LVCの真髄を垣間見る思いであった。これを機に、1996年産業医大病院眼科にロービジョンクリニックを開設した。当時は教育や福祉が主にLVCを担当しており、患者の多くはLVCの名すら知らず、眼科は経過観察や治療を提供する場でしかなかった。

 その頃、LVCに関心を持つ眼科医が公に学ぶ場は厚生省主催視覚障害者用補装具適合判定医師研修会しかなく、LVCに関する和文の教科書もほとんどなく、須く私の師匠は患者であり、視覚障害者の方々であった。一方、視覚障害者の方々が持つ問題が医療だけでは全て解決できないのは自明のことであり、多くの他職種の人たちとの学際的連携が重要であると考え、北九州視覚障害研究会や九州ロービジョンフォーラムを発足させた。そして、この仲間との体験を一冊にまとめたものが「ロービジョンケアの実際 視覚障害者のQOL向上のために」(医学書院)である。

 そもそも、眼科医療は眼疾患や視機能障害を診るのだから、そこから発生する不自由さや日常生活動作の支障を考えると、私たち眼科医は患者の目の使い方、適切な視覚補助具や視環境等々のアドバイスはごく普通にできるはずである。場合によっては心のケアを行いながら、「できなくなった」日常生活動作を一つひとつ「できる」ようにすることで自信が回復し、それが学校や職場など社会復帰へ繋がっていくことを当事者や家族が実感できることが大切である。

 そのためには、寄り添いながらニーズに対応していくLVCでは十分でないことも多々あり、それを包含してもなお余りあるものが必要と考えた。それは、寄り添うところから一歩踏み出し、患者の抵抗を知りつつも患者の背中を押すことの必要性である。これは患者の意に沿わぬことを押し付けているように傍からは見え、医療スタッフに誤解を生じることも時にはあるが私はこれをロービジョンリハビリテーション(LVR)と呼び、これこそが眼科医療の役割と認識している。

 また、他の身体障害では早期リハビリテーションがその予後を左右するといわれており、LVRでも同様と考える。これには、視能訓練士や看護師などのコメディカルとともに生活支援の立場から展開させていくことが大切である。

 以上のような考え方をベースに、眼科医療にLVC、LVRを広く普及させなければならない重要性を痛感した私は"LVCの診療報酬化"を積極的に進めた。その結果、日本眼科学会や日本眼科医会の協力が得られ、厚生労働省の担当者にもご理解いただけ、当事者の方々からの大きな声が追い風となって、私が日本ロービジョン学会理事長在任中の2012年に、ロービジョンの診療報酬化はロービジョン検査判断料の名称で実現した。このロービジョン検査判断料は、繋ぎ目のない連携を求めており、医療がその任を果たすべきであることを示している。このようにLVRの意味を明確にした。したがって、今後のLVCはLVRを担う眼科医療が中心となり、如何に患者主導の医療に展開していくべきかである。

略歴

高橋 広(北九州市立総合療育センター眼科部長)
1975年 慶應義塾大学医学部卒業
1986年 カナダ・ブリティッシュコロンビア大学留学
1989年 産業医科大学医学部眼科学講座講師
1993年 同大学助教授
2000年 柳川リハビリテーション病院眼科部長
2008年 北九州市立総合療育センター眼科部長(現在に至る)
2012年 獨協医科大学越谷病院特任教授

役職:日本ロービジョン学会理事長:2010年4月~2013年3月

『報告:新潟ロービジョン研究会2014 その1 特別講演:田淵昭雄』

歴代の日本ロービジョン学会理事長3名が一堂に会して「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」の特別講演、各地でロービジョンケアを実践している3名にシンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」で語って頂きました。各講師の講演が素晴らしく、また実りあるディスカッションと充実した時を過ごすことが出来ました。
 研究会には、新潟県内はもちろんのこと、全国(香川県・東京都・埼玉県・愛媛県・兵庫県・宮城県・茨城県・福島県・大阪府・滋賀県・奈良県・山形県・京都府・千葉県・岐阜県・神奈川県・和歌山県・福岡県・岡山県;参加申し込み順)から、約80名(医師・視能訓練士・教員・学生・心理カウンセラー・社会福祉士・ガイドヘルパー・市民の方々・当事者・家族等々)が参加し、「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」をテーマに、大いに盛り上がりました。
 講師の方々に講演要約を書いて頂いたので、順次、ご報告致します。

特別講演 1
日本におけるロービジョンケアの流れ:日本ロービジョン学会の設立前
田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科;日本ロービジョン学会初代理事長)
http://andonoburo.net/on/3222

講演要約

 2000年4月の第1回日本ロービジョン(以下、LV)学会学術集会での基調講演で、丸尾敏夫帝京大学教授が「・・日本におけるLVへの眼科医の対応は1929年にはじまり、弱視学級が作られた。近代的なLVの医療、教育、社会や行政への対応は40年前から始まり、30年前にはすで確立していた。」と述べられた。すなわち、1929年に小柳美三東北大眼科教授がLV児の特殊教育の必要性を訴え、1933年に南山尋常小学校(東京麻布)に全国初の弱視学級が開設された。戦後になって傷痍軍人など中途LV者のための更生施設開設(松井新二郎の活躍)と共に、1960年前後に原田政美、大山信郎、湖崎克ら眼科医の活動によって学校教育の中に弱視教室が実現した。1960年原田政美による視覚障害福祉、1961年湖崎克による弱視教育に関する学校保健法への働きがあり、1963年には弱視学級が大阪、東京、岡山で創設されている。1964年に文部省補助金交付対象研究団体として日本弱視教育研究会(大山信郎会長)が発足しているのは注目すべきである。同年に順天堂大学や岡山労災病院の眼科外来に今で言う総合リハビリテーションとも呼ばれる(障害の告知、心理相談、進路相談、院内生活訓練なども行う)本格的なLVクリニックが設置されている。LVケアも斜視弱視外来に取り入れられている。

 それでも当時は眼科医主導のLVケア施設数が少ないこと、何よりもLVケアへの眼科医の関心の低さなどから、全国的には多数のLV者が眼科医療からLVケアへ繋がれることなく放置されていた、と言っても過言ではない。

 一方、1970年から1980年代は視覚障害を持つ乳幼児の研究が盛んとなり、1979年には第1回乳幼児視覚障がい研究会(対馬貞夫ら)が立ち上げられている。演者が1970年代に兵庫県立こども病院在職中は、LV児は1968年に開設された東京都心身障害者福祉センター(原田政美所長)や1975年に開設された神戸市立総合福祉センターの視力障害幼児生活訓練室などで指導してもらった。何といっても地元でのLVケアが本来的であるが、その必要性を理解していた眼科医はまだ力不足であった。1970年以降の白内障眼内レンズ挿入術や網膜硝子体手術など眼科医療・研究の急速な発展と、それに追付こうとする気運が勝り、一般眼科医にはLVケアは念頭になかったといえる。ところが、高齢者社会の到来と共に中途LV者の増加が次第に地域LVケアへの転換の気運を生み出した。

 1991年から年1回開催された国立身体障害者リハ・センター(簗島謙次眼科部長)での厚生労働省による「視覚障害者用補装具適正医師研修会」(通称、医師研)を受講した全国各地の眼科医による職場(地域)での活躍が年々活発化した。彼らは毎年大きな学会中に研究会を開き、症例検討や簗島謙次眼科部長から世界のLV研究の状況などを聞いて仲間意識を強めてきた。この研修会が国リハでの5日間の集中研修であったために参加者はそれほど増えなかった。しかし、彼らが核となりLVケアの学術的向上を望み、眼科医療関係者以外の教育、看護、福祉、保健や行政その他など広い領域による学際的組織として「日本LV学会」創設の基盤になっている。幸い2007年から同センターの部長(仲泊聡)が代わったのを機に、医師研の期間が3日間に短縮されて受講しやすくなっている(演者はその最初の受講生20名の一人で第230号の修了証書をもらっているが、この数は今後飛躍的に増加するだろう)。

 演者(小児眼科医)の立場からみると、今なお、視覚障害乳幼児の早期指導で個々に応じた対応ができていない。とくに、晴眼児とのコミュニケーション不足も大きな問題で、本学会のロゴマークを無償で寄贈された漫画家故赤塚不二夫のような民間人からの支援も受けながら、今後より確実な指導法を開発する必要がある。(1603字)

略歴

田淵昭雄 
昭和43年(1968年) 3月 神戸大学医学部卒業 
昭和45年(1970年) 7月 兵庫県立こども病院眼科勤務
昭和52年(1977年) 5月 川崎医科大学 助教授 (眼科学)
平成 元年(1989年) 9月 川崎医科大学 教授  (眼科学) 
平成 4年 (1992年) 9月 川崎医療福祉大学 教授(感覚矯正学)併任 
平成16年 (2004年)12月 川崎医科大学 教授 退職 
平成17年(2005年) 4月 川崎医科大学名誉教授
平成23年(2011年) 4月 日本眼科学会名誉会員
平成25年(2013年) 4月 川崎医療福祉大学 特任教授

役職:日本ロービジョン学会理事長:
平成12年(2000年)4月~平成22年(2010年)3月

「視覚障害者の求めた”豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」

案内:第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 岸 博実

演題:「視覚障害者の求めた"豊かな自己実現"―その基盤となった教育―」
講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)
日時:平成27年03月11日(水)16:30 ~ 18:00 
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
http://andonoburo.net/on/3434

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

抄録

 日本の盲人は"記憶"と"手技"を駆使して職業を獲得してきた。徳川時代には「自治」を経験し、教育機関も設けた。明治以降の盲教育は、西欧の知見に触発されつつ、日本的な特性を持って構築された。教育目的に掲げられた「自助」論を問い直す必要があろう。
 まず、明治以降の<教育権>思潮を小西信八の言説と教員組織の営みを通してなぞり、「盲・ろう教育の義務化と分離」が希求された経緯と、特別支援教育の課題を考える。
 次に、視覚障害当事者の営為を振り返る。好本督や鳥居嘉三郎による「同窓会」・「日本盲人会」の結成が点字新聞等の発行へとつながった。高等教育を志した青年の先駆性、木下和三郎『盲人歩行論』の先見性にも光を当て、「自己実現」追求の意義を確かめる。
 さらに、「人類の文字が東西ともに凹字から始まったのはなぜか」の考察を入り口に、「紙と平らな文字(墨字)」時代の明と暗をみつめ、凸字から点字へと飛躍した画期的な展開をおさえる。「文字の世界の新人」である点字の魅力と将来像を吟味する。
 最後に、新潟ゆかりの先人たち-小西信八が示した点字を最初に読みこなした小林新吉、高田訓矇学校を興した大森隆碩たち、『玄海』(辞書)や『内国地図』(教科書)を点訳した東京盲唖学校訓導・大森ミツ-に思いを馳せたい。
 <高田盲学校史料>の中から埋もれた希少資料を紹介し、新潟の視覚障害教育史資料の保存及び活用への期待を述べたい。

略歴

1972年(昭和47年)   広島大学教育学部卒業
1974年(昭和49年)~  京都府立盲学校教諭
2011年(平成23年)~  点字毎日・点字ジャーナルに盲教育史連載 
2012年(平成24年)~  日本盲教育史研究会事務局長
2013年(平成25年)~  滋賀大学教育学部非常勤講師
          6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演を担当
2014年(平成26年)7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で
              教育講座を担当

ネット配信

 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力によりネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。下記のいずれでも視聴できます。

http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai 
http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/

 当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

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