新潟市医師会からの通達により、
抗血栓薬(血液を固まりにくくする薬)を服用中の方に、新潟市胃内視鏡検診は行えないことになりましたのでご了承ください。
※市から郵送された受診券に記載されておりますのでご確認下さい。
なお、予約の際及び検査当日は、確認のため「おくすり手帳」を必ずお持ち下さい。
新潟市医師会からの通達により、
抗血栓薬(血液を固まりにくくする薬)を服用中の方に、新潟市胃内視鏡検診は行えないことになりましたのでご了承ください。
※市から郵送された受診券に記載されておりますのでご確認下さい。
なお、予約の際及び検査当日は、確認のため「おくすり手帳」を必ずお持ち下さい。
3月7日、栄養科が、国立循環器病研究センター主催の平成26年度ご当地かるしおレシピプロジェクトS-1g大会に参加し、全国137件の応募から一次審査を通過し、最終選考に挑み、優秀賞を受賞しました。そこで、受賞したレシピをご紹介します。
【1人分エネルギー146kcal、塩分0.5g】
材料(2人分)
「減塩」とは、単に塩を減らすだけではありません。旨味・酸味・辛味・香味・風味などを足すことで、味付けに変化をつけることができます。塩味以外のものをうまく利用することで、減塩でもおいしい食事になります。今回のレシピでも、里芋団子には味付けをしません。その代りに、旨味・香味・風味・辛味などを利用しています。また、揚げる際に衣を付けないことで、エネルギーも抑えています。
肌が白く、きめ細やかで、食べるとまろやかなぬめりのある食感が特徴です。主産地の五泉市は、絹織物の産地でもあり、その帛(絹)と、いもの白さをかけて「帛乙女(きぬおとめ)」と名付けられました。貯蔵性もあり、ほぼ通年にわたって出荷されていますが、9月下旬から11月にかけて、出荷のピークを迎えます。
甘エビとも呼ばれていますが、新潟では鮮やかな赤色や形が赤唐辛子(南蛮)に似ていることから「南蛮エビ」の名で親しまれています。県内各地で水揚げされますが、佐渡市、新潟市、糸魚川市が主な産地として挙げられます。新潟県産の南蛮エビは7、8月を除く周年、手に入れることが出来ます。
適度な降雨と高い湿度という、新潟県特有の気象条件を生かして栽培されています。抜群のやわらかさと白さ、そして甘味の高さが特徴です。色白、柔肌という越後美人のイメージから「やわ肌ねぎ」というブランド名がつけられました。通年出荷されていますが、秋から冬にかけて出荷量が多く、食味も良くなります。
医療情報誌「HIROBA」(2015年春号)の特集に、外科部長 田邊匡医師が掲載されています。
テーマは「根治性と整容性を両立させた乳癌手術 オンコプラスティックサージャリー」です。
医療情報誌「HIROBA」は当院、1階各所にも配置されていますので、ぜひご覧ください。
夜間(19時〜翌7時)・休日(終日)における病院外への出入りは40番 時間外受付よりお願いします。
患者さん、地域の皆様、より多くの方に手に取ってもらいたいという思いで広報誌をリニューアル致しました。当院の情報や健康についての豆知識など読者の方に有益な情報を発信していく予定です。
本誌充実のため、皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。
上記以外にも、皆様に楽しんで読んでもらえるようたくさんのコンテンツを盛り込んでおりますのでぜひご覧ください。
今後は、院内以外の配置場所を追加していく予定です。
広報誌のリニューアルを記念して、済生会新潟第二病院のオリジナルキャラクターデザインを募集いたします。プロ・アマ・年齢など制限はありません。親しみやすいオリジナル作品をどしどしお寄せください。
平成27年4月1日(水)〜平成27年5月15日(金)【必着】
商品券1万円分
主催者において審査し、採用作品1点を決定します。
審査結果については病院ホームページにて発表、賞品の発送をもってこれに代えさせていただきます。
応募は郵送または、電子メールで受け付けております。
応募の際は、以下の事項を必ず明記し応募して下さい。
①氏名
②住所
③連絡先(電話番号、お持ちの方はメールアドレス)
④キャラクターの名前とコンセプト
〒950-1104
新潟県新潟市西区寺地280-7
済生会新潟第二病院 総務課 イメージキャラクター担当
E-mail:koho@ngt.saiseikai.or.jp
演題:「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
講師:青木 学(新潟市市会議員)
日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3401
済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。
1. 視力を失って
小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。
2. 盲学校入学
中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。
ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。
3.盲学校の外の世界へのあこがれ。
楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。
そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。
4. 大学進学への挑戦
1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。
そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。
4. アメリカ留学
卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。
アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。
こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。
5.日本に帰国し市議会へ
社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。
私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。
6.進む法整備
国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。
私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。
こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。
1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、京都外国語大学英米語学科。
1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中。
http://www.aokimanabu.com/
青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。
目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。
幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。
青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。
報告:第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 大石華法
演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3418
1.現在化粧の動向と視覚障害者
化粧は、顔の容姿を美しく装うだけのものではなく、社会人女性としての「身だしなみ」と言われるまでになっている。現在では1人の成人した女性として社会に参加するには、「身だしなみ」の1つとして化粧することが習慣化されている。
女性が美しくなることに関する研究や商品開発は止まることを知らず、綺麗な容器に身を包んだ化粧品や美容アイテムが次々と生産されて女性を魅了し続けている。昨今では若者女性の間で,目を大きく魅力的に見せるアイメイクの流行により、マスカラ、付け睫毛、アイライン、カラーコンタクトレンズなどを着用し、華やかで個性ある化粧を施す女性が多くなった。
今や化粧は社会人女性としての「必須アイテム」となり、「アイデンティティ」の確立に寄与しているとさえいわれている。また化粧の本格的な習慣化は、成人としての社会参入条件であるとの指摘もある。これらの報告から現在社会における化粧は、女性にとって、自身の生き方や社会生活と大きく関連するものであることが指摘できる。
2.化粧と視覚障害者の現状
化粧社会と言われるなかで、視覚に障害を有することで自分自身の顔を鏡で見ることが不自由な女性は、化粧をしなくなる傾向がある。その背景には、視覚に障害を有しながらも化粧を試みるが、他者からの低い評価を受けたことで自信を失い、自己肯定感が低くなるなどの心理的な影響によるものが多い。低い評価の例として、「化粧がムラになっている」「チーク(頬紅)やアイブロー(眉毛)が右対称ではない」「口紅がはみ出している」「化粧が濃すぎる」などがあげられている。
このような低い評価を受けたことで,化粧することに対して不安や恐怖を感じて,化粧をしなくなる傾向にある。また、化粧したくてもできないことでコンプレックスを持つ女性も多い。これらから、視覚に障害を有する女性にとって化粧をしたくてもできないことは、化粧社会の女性の中で疎外感を持つことにつながり、女性性を低下させる要因の1つになっているのではないかと考えた。
3.視覚障害者に向けた化粧支援
演者は化粧活動の中で、化粧したくてもできないことでコンプレックスを抱えている視覚障害者に多く出会った。この出会いがきっかけとなり、視覚障害者に化粧の色彩や仕上がりを音声にした情報を提供することに関心をもった。
化粧品や色彩などの美容情報を口頭で伝えながら化粧施術をすることで、視覚障害者は自身が化粧により綺麗になっていく工程を化粧施術者の音声情報により認識して,化粧を楽しむことができた.また他者から「綺麗」「可愛い」「美しい」など女性特有の称賛を受けることで自信を取戻し、外出支援に繋がると期待された。
しかし、この活動には限界があった。それは化粧技術者が視覚障害者に化粧を施した直後の場合では綺麗に仕上がった状態であるが、「食事をすると口紅が落ちた」「汗で化粧が崩れた」など化粧にはパーマネント性がないため、1度化粧崩れしてしまうと「化粧直し」という2次的な支援まで活動が行き届かないことであった。
4.「ブラインドメイク・プログラム」の開発
そこで演者は、視覚障害者に化粧施術者によって化粧すること自体を抜本的に見直した。視覚障害者が他者からの施しによって化粧されるのではなく、自分自身で化粧ができる「化粧の自己実現」に意義があると考えた。この考えから、2010年に鏡を見なくてもフルメイクアップができる「ブラインドメイク」の化粧技法を開発した。
そして、化粧の仕上がりは結果主義や成果主義であることから、化粧工程に工夫とテクニックを組み入れた。化粧の仕上がりを「バランスの取れた自然な仕上がり」に見せることを課題として合理的かつ効率的な化粧技術を追求した。この研究から無駄な動きを省いて合理的かつ効率的に鏡を見なくても化粧することができる「ブラインドメイク・プログラム」を完成させた。(映像視聴:12分30秒)
5.障害者ではなく、ひとりの女性として
ブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性は、「自信が持てる」「外出したくなる」「人と話がしたくなる」(心理的有効性)、「元気になる」「食欲が増す」(身体的有効性)、「周囲の人が親切になった」「声掛けや手引きをしてくれる人が多くなった」(社会的有効性)と述べている。これらから、社会的視点では、視覚障害の女性を"障害者"ではなくひとりの"女性"として認識し、尊重した接し方をしていると考えることができる。また、視覚障害者からの視点では、ひとりの女性として社会的配慮ができるということ、そして社会へ参加する前向きな意思があるという周囲へのアピールになっていると考えることができた。このような取り組みが社会に向けた視覚障害者からの理解を深める1つの活動につながり、彼女たちの声掛けや手引きにつながっていると考えている。
追伸
「理美容ニュース」で、昨年、日本美容福祉学会で発表しましたブラインドメイクの研究が取り上げられて、記事になりました。ご一読いただけましたら幸いです。この発表がきっかけで、今年の秋から、美容専門学校のメイク科で、ブラインドメイクを科目に入れていただくことになりました(大阪市中央区)。私のもう一つの役割として、ブラインドメイクを通して、広く社会に視覚障害者を理解してもらうことと考えています。
http://ribiyo-news.jp/?p=13994
1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
日本ケアメイク協会 会長(2010年~2014)
http://caremake.on.omisenomikata.jp/
大石さんは、中央大学法学部出身、理容師の資格を持ち、普段は司法書士として仕事をし、かつ福祉大学の大学院で学んでいます。そして目の見えない方のためのメイクを独自の手法で開発し、広めているのです。浪速っ子。講演は、パワーに溢れていました。ユニークでした。有意義でした。楽しかったですし、元気をもらいました。講演を聞きに来た方々を巻き込み、突っ込みをいれての熱演でした。初めから笑いの連続であっという間の90分でした。
曰く、・女性には化粧が大事。・化粧のコツは、左右対称にするために両手を使う。・筆より指がいい。・メイクの中心は「目」。・目を大きく見せる・睫毛は長く見せることが大事。・褒める、でも悪いとこはしっかり伝えるも大事。・私は綺麗という自信(勘違い)が大事。・キレイニなることで、社会への参加の機会が増える。・いつまでも異性に対するワクワク感、トキメキ感が大事。・環境や周囲の理解が大事。・福祉関係の人にメイクに関心がない人が多い、、、、、、、、、「小じわが気になるんです」というと、よく「そんなの心配ない。私はもっとある」とか言われてしまう。そんなことを言われたら、(あなたはそれでいいのかもしれないけど、私は嫌だ)と思う。。。。。
実際のところ、視覚障害者にとって先ずは日常の生活ができるようになることが求められ、化粧は次の段階であろうと思います。化粧品の購入にはお金もかかります。しかし視力を失い多くのことを諦めるようになった方々が、(特に女性の場合)「ブラインドメイク」によって、諦めた多くのものを取り戻せるきっかけになるのではないかと強く感じた次第です。
大石さんの今後の益々の活躍を応援したいと思います。このプロジェクトが発展し、多くの視覚障害者に希望をもたらしてくれることを祈念します。
シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
3)私たちの行っている視覚障害リハビリテーション
山田 幸男
(新潟県保健衛生センター)
(信楽園病院 内科)
http://andonoburo.net/on/3290
私たちのリハビリテーション(以下リハビリ)を始めるきっかけは、糖尿病網膜症が原因で失明した35歳のO君の入院中の自殺です。入院中のO君は奥さんにすべて介助してもらっていました。もし彼が入院中トイレやナースステーションに自分一人で行き、食事も一人で食べることができたら、奥さんは働くことができ、経済的に追い込まれることはなかったのではないか、それには目の不自由な人にもリハビリが必要であると考えました。
それまでは目の不自由な人のリハビリのあることさえ知りませんでした。彼の死後間もなくして目の不自由な人にもリハビリのあることを知りました。そして10年の準備期間をおいて、1994年に信楽園病院にリハビリ外来を開設しました。私たちのリハビリ外来は、県外からリハビリ専門施設の先生方(清水美知子先生と石川充英先生)に来ていただき、その先生方を中心に、眼科医、内科医が同席して月2回開いています。
今年は開設して満20年になります。外来受診者は800人、延べで10,000人ほどです。
リハビリ外来では、就労訓練をのぞいた歩行訓練、ロービジョンケア、音声パソコン・点字指導、進学・就職相談、こころのケアなど広く指導を行い、パソコンや点字、歩行訓練などの頻回に継続して指導の必要なものは、外来のほかに週4回教室を開いて継続的に指導を行っています。
いままで目の不自由なことが原因で死を考えたことのある人は56%、うつ病・うつ状態になったことのある人がおよそ50%おります。こころのケアは重要です。
目の不自由な人に欠かせないこころのケアには、私たちはリハビリ外来やグループセラピーに加えて、お茶を飲みながら談笑できる喫茶室を設けて対応してきました。喫茶室には、目の不自由な人のほかに晴眼者や学生なども出入りするので、いわゆるうつ病とはやや異なる視覚障害という疾患のある人に多いうつ・うつ状態の改善には、このような喫茶室も有効と考えています。
新潟県は広く、また交通の便が必ずしも良くないため、私たちのリハビリ外来を継続して利用することの困難な人が多くみられます。その解決策として開設したのが、県内10数か所のパソコン教室兼喫茶室をもつ姉妹校(サチライト)です。サチライトではパソコン教室を定期的に開いて、パソコン指導や簡単な歩行訓練などもやっています。サチライトでも目の不自由な人や晴眼者が集まって、お茶を飲みながら話に花を咲かせています。こころのケアにも大きな効果がみられます。
視覚障害者においても高齢化は大きな問題です。とくにロコモティブシンドロームによる転倒、骨折、そして寝たきりです。なかでも加齢による筋肉の減少症(サルコペニア)対策は重要です。
そこで2014年8月から私たちは、サルコペニア予防としての筋トレ・栄養指導、さらにフットケアなどを含めた転倒予防・体力増強教室を毎月1回開催しています。開催前の私たちの予想では、参加者は10人くらいだろうと思っていたのですが、予想に反して、 70人(晴眼者も含めて)が参加され、そのニードの大きさに驚いています。とくに糖尿病患者では、サルコペニアの併発は血糖の悪化につながるので、その予防は大切と考えています。
高齢視覚障害者対策は今後ますます重要です。
山田幸男(やまだ ゆきお)
昭和42年(1967年)3月 新潟大学医学部卒業
昭和42年(1967年)4月 新潟大学医学部附属病院インターン
昭和43年(1968年)4月 新潟大学医学部第一内科に入局。内分泌代謝斑に所属
昭和54年(1979年)5月 社会福祉法人新潟市社会事業協会信楽園病院
平成17年(2005年)4月 公益財団法人 新潟県保健衛生センター
学 会
日本内科学会認定医、日本糖尿病学会専門医、日本内分泌学会専門医、
日本病態栄養学会評議員、日本ロービジョン学会評議員
視覚障がい者のために築いてこられた素晴らしい「NPOオアシス」の成り立ちを振り返り、多くの示唆に富む講演でした。内科医でありながらロービジョンケアに取り組んだと評価する方もいますが、内科医であればこその発想(体内時計/骨代謝等)は、眼科医では思いもつかないかなり独創的でかつ先駆的な仕事です。糖尿病透析患者Oさんの失明したことによる自殺という事件を、このような形で乗り越えてきた(報いてきた)山田幸男先生、新潟の誇りです。
シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
2)一眼科医としてロービジョンケアを考える
八子恵子 (北福島医療センター)
http://andonoburo.net/on/3277
眼科医になってまもなくから、小児眼科や斜視・弱視といった領域を担当することが多かった私は、眼先天異常や未熟児網膜症、網膜芽細胞腫などによる視覚障害のお子さんを診察する機会があった。それらのお子さんに、屈折矯正眼鏡や弱視レンズ、遮光眼鏡、義眼などを処方し、指導する経験を得た。そして、これらの処方が、「見える」や「見やすい」の喜びを与え、「かわいいね」で表情が明るくなるなど、大きな力を持つことを知った。
これらの経験から私は以下のようなことに気がついた。すなわち、眼疾患の治療が必要ない、あるいは不要となった患者さんにたいしてもやるべきことがある。それらは、眼科医でなければできないことである。しかしそれらは、患者さんの周囲の人の協力があって進むことである。といったことである。
次に、私は、福島県障がい者総合福祉センターが行っている視覚障がい者巡回相談会における医療相談を担当することになり、この巡回相談会に、県や地方自治体のみならず、県立盲学校、生活支援センターや拡大読書器や遮光レンズを展示する業者など多くの人がかかわっていることや、ピアカウンセラーの存在を知った。そして、これらの参加団体がいろいろな行事ややり方で視覚障がい者を支援していること、しかしその内容を眼科医である私、すなわち視覚障害を持つ患者さんに最も早く、もっとも頻繁に会っている眼科医が知らないということにショックを受けた。そして、視覚障がい者に向けた活動や支援を知り、患者さんに伝え、眼科医も積極的にその役割を果たすためには、これら関連する団体や人と連携する必要があると強く感じ、福島県ロービジョンネットワークを立ち上げることになった。
福島県ロービジョンネットワークは、設立から8年になり、それなりの活動ができているが、私という一眼科医としてロービジョンケアとどうかかわっているであろうか。大学勤務を辞めて以降、定期的とは言え多施設で診療をしている私は、一施設での系統だったロービジョンケアをできず、外来で出会ったロービジョンの方にすすめたいと思う補装具が多くの施設には用意されていない、しかし、遮光レンズなどは実物を見ないと患者さんに理解していただけず、理解していただけなければ先に進めないのが現状。このような状況でも私がプライマリーあるいは基本的ロービジョンケアをしたいなら、「自分でモノを持って行けばよい」「そうだ、移動診療所だ」となったのも私が年に似合わず、運転好きであったことが功を奏したと言える。
そんなわけで、私の車の後部座席には、遮光レンズのトライアル、焦点調節式単眼鏡数種、小児の近見視力を測定する視力表、レチノスコープ(屈折検査機器)、模型の眼球(患者さんに主に屈折異常を説明するため)、治療が難しい複視の解消に役立つ遮蔽レンズ(オクルア)のトライアル、クラッチメガネ(手術非適応の眼瞼下垂にたいする対症療法)、義眼数種などなどが乗っている。それらから、ロービジョンの患者さんに、よいのではないかと思われるモノを見、体験していただき、これ!というものがあれば、手帳の有無によるその後の流れを説明、福祉や直接業者などにつなげることになる。もっと多くのものを見たほうがよい場合には、展示会や展示している業者などを紹介するが、その場合も、様々な職種、団体とのつながりが大いに役立っている。
一眼科医がロービジョンケアにかかわるには、大きなことはいらず、必要としている患者さんに巡り合うこと、そのような患者さんは目の前におり、それに気づくこと、少しでよいから何かを提案し、自分にもできることがあることを知ること、でも、できないことは人に頼ること、そのために多くの人とつながることである。今の私の思いである。
八子 恵子
1971年 福島県立医科大学 卒業
1972年 福島県立医科大学 助手
1978年 公立岩瀬病院眼科 医長
1980年 福島県立医科大学 講師
1988年 福島県立医科大学 助教授
2003年 福島県立医科大学 非常勤講師
2007年 埼玉医大眼科客員教授
2008年 北福島医療センター 非常勤医師
福島県ロービジョンネットワーク 代表
拝聴した皆が、「これがロービジョンケアの原点だ」と感じた素晴らしい講演でした。
眼科医として診療に携わる中で、必要と感じた(効果のあった)症例を提示し、「治療が必要がなくなった患者でもやるべきことはある」と断言された。曰く、LVの基本は「気が付くこと、何かを提案すること、自分にもできることがあることを知ること、出来ないことは他人に頼ること」、、、、、
うっ、これは人生の基本か1?