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視覚障がい者議員としての歩み

案内:第249回(16-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (青木 学)

 済生会新潟第二病院眼科で、平成8年6月から毎月行なっている勉強会。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

演題:「視覚障がい者議員としての歩み~社会の変化に手ごたえを感じながら~」

講師:青木 学(新潟市市会議員)
日時:平成28年11月09日(水)16:30 ~ 18:00
会場:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/5146

抄録

 私は1995年4月に行われた新潟市議会議員選挙に「バリアフリー社会の実現」を掲げ立候補し、初当選を果たしました。以来6期20年余、多くの市民の皆さんのご支援をいただき、また協働して様々な課題に取り組んでくることができました。

 当選後、まず最初に私が活動できるように議会内の環境を整備することを求めました。執行部から提出される資料の点訳や各室への点字表示の設置など、特に最近では点訳される資料の範囲も増え、それに加え、パソコンの活用も進み、資料をデータでもらうなど、議員活動の基礎となる情報の入手という点では、議員になった当初と今では格段の差があります。

 またこの間、常任委員会や特別委員会の委員長、議員連盟の会長そして前任期においては2年間副議長を務めさせていただきました。これらの職責は事務局のサポートはもちろん、執行部側と各議員の協力があって務められるものであり、その意味では周囲の皆さんの視覚障がいに対する理解が広まった一つの証でもあるととてもありがたく感じています。

 また多くの関係者と協力して取り組み、成果があがっているものとして、視覚障がい者への情報提供の充実、バリアフリーのまちづくりに向けたハード、ソフトの整備、「障がい者ITサポートセンター」の設置、点字による市職員採用試験の実施、「障がいのある人もない人も共に生きるまちづくり条例」の制定などがあります。

 今後とも多くの皆さんと協力し、障がい者の立場から、一人ひとりの人権が尊重され、安心して暮らせる市政を目指して活動を進めていきます。

略歴

小学6年の時、網膜色素変性症のため視力を失う
新潟盲学校中学部、高等部、京都府立盲学校を経て、京都外国語大学英米語学科に進学
1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学
1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加
1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす
現在に至る

議員活動の他、現在社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、新潟県立大学非常勤講師を務める

「青木まなぶとあゆむ虹の会」
http://www.aokimanabu.com/index.html

ネット配信について

「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により実況ネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

乳腺 二次検診の受診について

乳腺二次検診は予約制となります。
受診につきましては事前の予約が必要になります。

開始日:平成28年10月24日から
予約連絡先:地域医療連携室(B棟2階)

地域医療連携室が予約を承りますのでご連絡ください。(電話予約)
TEL:025-233-6182

新潟市障がい者ITサポートセンターの8年間の挑戦

報告:第247回(16-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (林 豊彦)

演題:新潟市障がい者ITサポートセンターの8年間の挑戦
〜障がい者・高齢者の技術支援の社会資源化をめざして〜
講師:林 豊彦(新潟大学工学部教授/新潟市障がい者ITサポートセンター長)
日時:平成28年09月14日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/5141

講演要約

1.支援技術との出会い
 平成10年(1998年)4月、新潟大学工学部に「福祉人間工学科」が新設された。日本社会の急速な高齢化により高齢化率が20%目前となり、高齢者に対する社会保障制度の大きな変革に迫られていた時期であった。2年後の平成12年度には介護保険制度がスタートした。物つくりの面からもそれに対応すべく、文部科学省でも「福祉」がキーワードとなり、多くの福祉関係の大学・学部・学科が相次いで新設された。工学部にも福祉工学の学科がいくつか新設された。

 私はそれまで医用生体工学が専門であり、福祉に関してはまったくの素人だった。そこで、白書や専門書を読んで猛勉強した。さらに、ロサンゼルスで毎年開催されている「テクノロジーと障害者国際会議」に参加して、電子情報系の支援機器を実際に見て、教育セッション、講演、研究発表にも出席した。驚いたことは,日本では滅多に見ない多くの機器が市販され,学校や家庭でも使われていたことだった。展示会場には、コミュにケーションエンドを付けた電動車椅子で走り回っている肢体不自由者がなん人もいた。町中には,高齢者・障害者が支援機器を使うことを支援するNPOもあった。多民族国家であるアメリカ合衆国は、障害者に対しても懐が深い社会であることに感銘をうけた。

2.アメリカと日本の法制度の違い
 支援技術に関する日米間の違いの原因は何だろう?それが私の素朴な疑問だった。が、大きな要因のひとつは法制度違いであった。その裏には、そのような法律を必要とするアメリカの社会的・文化的背景があった。

 私がまだ子どもだった1950年代、アメリカは、南北戦争から100年も経ったにもかかわらず、いまだ人種差別の国であった。第二次大戦後、差別禁止を訴える公民権運動が高まり、1964年についに公民権法(Civil Rights Act)が制定され、法律上では人種差別が解消された。しかし、障がい者の差別の解消には、さらに30年近くの歳月が必要であった。1990年、障がいをもつアメリカ人法(Americans with Disability Act, ADA)が制定され、ついに障がい者の権利が法律で認められた。例えば、公共交通機関はバリアフリー化が進められた。公共交通機関を自由に使えることが障がい者の「権利」として認められたからである。1997年、個別障害児教育法(Individuals with Disabilities Education Act, IDEA)が改訂され、障がい児が能力に応じて等しく教育を受けるための方法論に明文化された。2003年には、リハビリテーション法第508条が改正され、連邦政府が電子機器・ソフトウェアを調達するとき、できるだけ障がい者も利用できることが条件となった。私が視察に行ったとき、アメリカはそのような状況にあった。残念ながら日本には、IEDAやリハビリテーション法第508条に対応する法律はない。

3.新潟市障がい者ITサポートセンターの活動
 日本では支援機器、特に電子情報系の支援機器の普及が進んでいない現状を打破するためには、普及を支援する社会資源を作るしかない。そんな思いから、障がい者団体や自立生活センターと一緒に新潟市障がい福祉課に対して「障がい者ITサポート事業」の予算化を陳情した。足掛け2年の交渉の末、平成20年度に新潟大学自然科学系附置・人間支援科学教育研究センターに事業が委託され、同年10月、ついに悲願の新潟市障がい者ITサポートセンターがオープンした。

 最初に行ったのが支援機器の利用調査だったが、結果は散々なものだった。代表的な電子情報系の支援機器を80%以上の障がい者が知ってすらいなかった。そこで戦略として、障がい者が必ず関わる学校と病院を中心に積極的に介入することにした。要するに営業である。その甲斐あって、初年度は半年で83件しかなかった支援件数が翌年度は289件に増加した。その後も毎年増え続け、平成27年度、ついに年間1,000件を超えた。講演会・講座・研修の開催件数も40件以上になった。もはや関連する病院や学校で本センターを知らないところはなくなり、定期的に支援会議を開いている学校もいくつかできた。新潟大学医歯学総合病院のロービジョン外来でも毎月支援を行っている。

 現在の体制は、センター長の私を除き、支援員1人(常勤)、事務補助1人(非常勤)、作業療法士(非常勤)の計3人である。本センターのポリシーは、単独では活動せず、「コメディカル(理学療法士、作業療法士、言語聴覚士など)、社会福祉士、教師、保護者などの中間ユーザと協働で、利用者にとって最適な支援を目指す」ことである。支援件数を毎年増やすことができた理由は、このような協働によって、確実に成功事例を積み重ねてきたことにあると考えている。

4.ITサポート機能の社会資源化
 支援員1人の現状では、支援件数1,000件/年および講演会等の開催40件以上/年という実績はほとんど限界である。しかし、潜在的な利用者はその何倍、何十倍もいると考えられる。新潟市障がい者ITサポートセンターの8年間の活動は、その社会的機能の必要性を広く世に知らしめることができたが、残念ながら今の事業規模では、その機能を十分には果たせないことも顕在化してしまった。

 そこで第3期(平成26年度〜28年度)では、ITサポート機能を社会に分散させることを目標とした。具体的には、保護者、教員およびコメディカルに対して支援技術教育を行うことにより、実質的な支援件数を増やすことを試みた。平成27年度、学校・病院において単発で実施した研修・講座は21回に上った。連続講座としては、新潟病院でミニ研修会を全5回、市立西特別支援学校で保護者向けiPad講習を全12回実施した。新潟県作業療法士会・言語聴覚士会との共催で、IT活用サポーター養成講座を全5回(1回3時間)実施し、多くの受講生が福祉情報技術コーディネーター認定試験にも合格した。この講座は平成26年度から毎年実施している。開催場所は、受講生が全県から参加しやすいように、新潟市、燕市、長岡市と毎年変えている。
障がい者ITサポート機能は、新潟県では新潟市が突出している状態であるが、この教育活動を通じて県内にも広めていきたいと考えている。夢は新潟県内の何箇所かに障がい者ITサポートセンターを設置し、連携して活動することである。

略歴

長岡市出身。
1977年(S52)新潟大学工学部・電子工学科卒、1979年(S54)同大院・工学研究科修士課程了、同年同大歯学部・助手、1986年(S61)歯学博士(新潟大)、1987(S62)同大歯学部附属病院・講師、1989年(S64)工学博士(東京工業大)、1991年(H3)同大工学部情報工学科・助教授、1996年(H8)米国Johns
Hopkins大・客員研究員、1998年(H10)同大工学部福祉人間工学科・教授、
2008年(H20)新潟市障がい者ITサポートセンター長(兼任)、2016年(H28)同大地域創生再生機構・副機構長(兼任)。
2017年(H29)同大工学部工学科・人間支援感性科学プログラム・教授(予定)
専門は生体医工学、支援技術、人間工学。

後記

視覚障がい者や支援者の前で、自ら立ち上げた「新潟市障がい者ITサポートセンター」のこれまでの8年間の歩みをお話をして頂きました。
日本人の資質や能力の高さを讃えながらも、法整備が欧米に比較すると遅れていることを指摘し、障がいを持っている人の人権は守らなければならないと力説されました。
素晴らしい講演でした。林先生の益々のご活躍を祈念しております。

参考

思えば、林先生とは永いお付き合いで、12年前にもこの勉強会で、「生活支援工学」のお話をして頂いています。
第104回(2004‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (林 豊彦)
日時:2004年(平成16年)11月10日(水)16時30分~18時
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
演題:『障害者の自立を支える生活支援工学‐視覚障害者のための支援技術を中心に‐』
講師: 林 豊彦 (新潟大学工学部福祉人間工学科福祉生体工学講座教授)
http://andonoburo.net/on/5048

3年前には私が主催させて頂いた視覚リハビリテーション大会では、高橋政代先生などとともに特別講演をして頂きました。
第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会
大会期間:2013年6月22日(土)~6月23日(日)
大会会場:チサンホテル&コンファレンスセンター新潟
大会長:安藤 伸朗(済生会新潟第二病院 眼科)
【特別講演】
「視覚障がい者はどうして支援機器を使わないのか?」
林 豊彦(新潟大学教授 工学部福祉人間工学科)
http://andonoburo.net/on/2144

新潟市障がい者ITサポートセンターの活動については、2011年12月に山口俊光先生(新潟市障がい者ITサポートセンター)に4年間の中間報告をして頂きました。
第190回(11‐12月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「新潟市障がい者ITサポートセンター4年間の活動報告」
講師:山口 俊光 (新潟市障がい者ITサポートセンター)
日時:平成23年12月14日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/5060

平成29年度 初期臨床研修二次募集について

マッチング公表後の空き定員に対して、初期臨床研修医二次募集 採用試験を下記の通り行います。

平成29年度 初期臨床研修医 二次募集要項

プログラム名 済生会新潟第二病院臨床研修プログラム
試験日時 随時
会場 済生会新潟第二病院
選考方法 書類選考後、面接
対象者 第111回医師国家試験を受験し、平成29年度に医師免許取得予定者
申込方法 次の出願書類を下記申込先へ持参又は郵送(簡易書留)
臨床研修申込書(A4)
履歴書(A3)
・卒業証明書または卒業見込証明書
申込先 済生会新潟第二病院 教育研修センター
〒950-1104 新潟県新潟市西区寺地280-7
TEL:025-233-6161(内線2253)
Eメール:rinken@ngt.saiseikai.or.jp
出願締切日 平成28年11月30日(水)当日消印有効

新潟盲学校弁論大会 イン 済生会

報告:第245回(16-07)済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会

「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
1)中学部 2年 「熊本地震で思ったこと」
2)高等部 普通科 2年 「一番大切なもの」
日時:平成28年07月06(水)16:30 ~ 17:30
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/5023

済生会新潟第二病院眼科では、毎年7月に新潟盲学校の生徒さんをお呼びして「新潟盲学校弁論大会イン済生会」を開催しています。

1)「熊本地震で思ったこと」

新潟県立新潟盲学校 中学部2年

講演原稿

 4月14日の夜、テレビを見ていたら、急に画面が変わって、地震のニュースが始まりました。熊本で震度7の地震が発生しました。家が崩れて人が生き埋めになり、たくさんの人が助けようとしていました。私はそれを見てびっくりしました。なぜなら親戚の人が熊本市にいるからです。家が崩れてないかケガをしてないか心配しました。母がすぐに電話をしましたが、つながりませんでした。次の日やっと電話がつながり、地震がどうだったかを聞きました。「家は壊れなかったけど、窓ガラスが割れた。すごく怖かったよ。」と言っていました。おばさんが無事でよかったです。

 私が熊本の人たちのためにできることは多くありません。ボランティアの人のようにお手伝いに行けません。募金や寄付もあまりできません。でも、熊本の人たちを励ますことはできます。「大丈夫?」や「頑張って下さい。」と手紙を書くことはできます。そして熊本の子供たちの分まで勉強を頑張りたいです。被災地で大変な人たちに負けないように、私もあきらめずに頑張ります。

 私が小さいときに新潟で大きな地震が2回ありました。地震はこないほうがいいですが、もしも新潟でまた地震があっても、あわてないで安全に避難しようと思います。日本は地震の国なので、いつきても大丈夫なように防災リュックを準備したり、避難場所の確認をしたりして、地震に備えたいです。
学校の避難訓練は真剣に参加したいです。また、母や祖母だけでなく、近所の人と助け合う気持ち、きずなを大切にしようと思いました。

2)「一番大切なもの」

新潟県立新潟盲学校 高等部普通科2年

講演原稿

 皆さんは人として何が一番大切だと思いますか?私は人間関係だと思います。でも、それは簡単なことではありません。私は、人間関係を築くのが難しく、人を傷つけたり、自分が傷ついたりしていました。

中学1年の時、私がいきなり怒鳴ったり、誤った言葉遣いをして、不快な思いをさせていた人がいました。ある日その人から帰りのスクールバスで罵倒され続け、さらに周囲の人も同調したため、私も押さえきれずに怒鳴り返して、口論になったことがありました。周りの人が同調したのには理由がありました。怒鳴ったり、場の空気を読まない発言をしたり、声の調子をコントロールせずに話す私に対して、全員が不快だったのです。

この出来事以降、その人だけでなく周りの人も私に対して冷たい雰囲気で接するようになりました。私は、自分のだめな点ばかり気になりました。少しでも人から良く思われたいと思って何かするけれど、かえって人を怒らせました。負のスパイラルに陥った気持ちになるだけで、全く希望が持てませんでした。人はつらいことばかりを抱えて一人で生きていかねばならないと思っていました。

周りの全ての生徒が喧嘩のことを知っていますし、冷たい雰囲気で接する中、Sさんは違いました。Sさんは、喧嘩をした翌年に盲学校高等部に入学してきました。Sさんも他の人から聞いて、喧嘩のことを知っていましたが、毎晩のように私を普通に食堂に誘ってくれ、悩みを聞いてくれました。私は、私の真意を疑わず、私のあら探しをしているとも感じずに、自然に話すことができたので、Sさんになら何でも話せると思いました。

 Sさんは、学校全体の人気者でした。女の子からの人気も1番、文化祭や寮祭での出し物も大うけ。食堂に入ってくれば、「Sさんだ、おはよう。」とみんなが声をかけていました。私は、うらやましいと思いました。そして、なんでSさんはこんなに人から愛されるんだろうと思い、ある晩に聞いてみました。

「実は去年こんな喧嘩があって…。」と思い切って一部始終を話してから、「ねえ、何でSさんは人から愛されるの?」と聞くと、「はっきりいうと、君は近寄りがたい。言葉の口調も強いし、よく見られようという気持ちと、褒められようという気持ちがごっちゃになって、よけいなことばかりしたり言ったりしているから。自然でいいんだよ。言葉の一つ一つを考えて、落ち着いて話してごらん。君には愛される要素をたくさん持っているから。」と言われました。私は、初めて、私を認めてくれた最高の友達に出会えたと感じました。

 Sさんとの出会いは、私に大切なことを教えてくれました。それは、人としての生き方、人間関係の築き方です。私は今も人間関係を築いていくのが難しいです。まだまだ、努力しなければいけないところがたくさんあります。分かりやすく話すこと、状況に応じた声の大きさを使い分けて会話をすること、ネガティブな考え方をやめていつも明るく元気に生きること、損得を考えて接したりしないこと、などです。

 高等部を卒業したら理療科に進み、国家資格を取って理療の道に進みたいという自分の将来を考えたとき、今までの私ではつとまりません。患者さんと他の人と良好な人間関係を築いて、少しでも具合がよくなるように施術できるようになりたい。そして明るく元気に生きていけるようになりたいのです。一番大切なもの、人間関係を築く努力を続けていきます。
 御清聴ありがとうございました。

後記

毎年、盲学校の生徒の弁論には心打たれます。ことしは、熊本地震に被災した人に素直に心寄せる心情を語った弁論、人間として成長する過程での葛藤を吐露した弁論、いずれもいいお話でした。彼らの今後のまっすぐな成長を願います。

参考

2009年から2015年までの「弁論大会イン済生会」のプログラムを以下に列記致しました。

第233回(15-07)済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会
「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
日時:平成27年7月8日(水)16:30~17:30
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
(1)「僕の父」 中学部3年
(2)「夢は地道にコツコツと」 高等部普通科3年
http://andonoburo.net/on/3807

報告:第221回(14‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
日時:平成26年6月11日(水)16:30 ~ 17:30
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
(1)「歌」高等部 普通科 3年
(2)「中学部に入学して」中学部 1年
http://andonoburo.net/on/2955

第209回(13‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
(1)「自分を信じて」 中学部 3年
(2)「一冊から得られること」 高等部 普通科 2年
日時:平成25年7月10(水)16:30 ~ 17:30
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/2126

報告:第197回(12‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
新潟盲学校弁論大会 イン 済生会
日時:平成24年7月25日(水)16:30 ~ 18:00 *第4水曜日です
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
1.「僕の将来の夢」
加藤 健太郎 (新潟県立新潟盲学校 中学部1年)
2.「将来に向けての目標」
古川 和未 (新潟県立新潟盲学校 本科保健理療科1年)
3.「心との約束」
左近 啓奈 (新潟県立新潟盲学校 中学部2年)
http://andonoburo.net/on/4624

報告:第185回(11‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
「新潟盲学校弁論大会イン済生会」
日時:平成23年7月20日(水)16:30~18:15
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
1)落語
演目:「転失気」 「二人旅」
演者:たら福亭美豚 (たらふくていヴィトン;新潟盲学校小学部6年)
2)盲学校弁論大会イン済生会
1.「震災を通して」
丸山 美樹(まるやま みき)  専攻科理療科2年
2.「過去・今・将来」
笠井 百華(かさい ももか)中学部3年
3.「決意」
樋口啓太郎(ひぐち けいたろう) 本科保健理療科1年
http://andonoburo.net/on/4628

報告:第173回(10‐07)済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会
日時:平成22年月7月28日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
1)「点字を学習して」
伊藤 奏(いとう かなで) 中学部1年
2)「人と関わるとは」
石黒知頼(いしぐろ ともより) 高等部普通科2年
3)「出逢い」
長谷川弘美(はせがわ ひろみ) 高等部専攻科理療科1年
4)「夢の続き」
山田 弘(やまだ ひろし) 高等部専攻科理療科3年
http://andonoburo.net/on/4634

第161回(2009‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 弁論大会
『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
日時:平成21年6月23日(火) 17:00~18:00
1.2年生
森山 威(もりやま たけし)専攻科理療科2年
2.白杖体験
山田 弘(やまだ ひろし)専攻科理療科2年
3.もう一つの理由
京 円香(きょう まどか)専攻科理療科1年
http://andonoburo.net/on/4638

京都ライトハウス創立者・鳥居篤治郎が抱いた絶望と希望とは

報告:第246回(16-08)済生会新潟第二病院眼科勉強会 岸 博実

演題:京都ライトハウス創立者・鳥居篤治郎が抱いた絶望と希望とは
講師:岸 博実(京都府宇治市)
日時:平成28年08月10日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/5023

講演要約

 「とりい とくじろう。なんだかお侍さんのような感じの、この名前、あなたは聞いたことがあるでしょうか」――これは、拙作「ぼっちゃんの夢-とりい・とくじろう物語-」の冒頭です。〈鳥居篤治郎〉がこの世を去ったのは1970年でした。すでに半世紀近く経ています。名前を知る人も少なくなりつつあります。私も、実際にお会いしたことはないのです。

 しかし、京都では、京都府立盲学校の副校長の任を果たし、京都ライトハウスを創立した先達として今も思慕されています。京都市名誉市民として顕彰もされました。身体障害者福祉法の実現を求める運動に尽力したこと、日本ライトハウスの創設者・岩橋武夫を継いで日本盲人会連合の会長となったこと、ヘレン・ケラーの3回目の来日を準備してホスト役を担ったこと、これらが主な足跡です。

 私は、鳥居篤治郎の著書『すてびやく』(京都北部の方言で「ボランティア」に相当する語)などに収録されていない彼の文章-福祉・教育・点字・理療に関する論考、随想・手紙・日記や挨拶文など-を探し出し、集める作業に取り組んでいます。これまでに「様々なメディアに掲載された後、そのまま埋もれてきた」文章がA4用紙で250枚分ほど見つかっています。発掘をさらに徹底して、鳥居全集を編むことを企図していますが、どこまで迫れるでしょうか。まだまだ道通しです。それはともあれ、文章を通して彼の人柄や業績に近づくにつれ、1秒でもいいから同じ職場でともに働きたかったという思いを募らせています。一人でも多くの方に彼の実像を伝えたいと思うようにもなりました。

 そこで、まずは、小学生や中学生を対象にできるだけ等身大の鳥居を、易しい言葉で伝えたいと、自費出版してみたのが伝記『ぼっちゃんの夢-とりい・とくじろう物語-』でした。本文わずか12ページのこの冊子を縦糸に、いくつかの横糸を添えてお話しします。

  • ニックネーム<ぼっちゃん>は、幼少の頃からの愛称ではなく、青年期に親交を結んだエロシェンコが名付け親だったようです。
  • 京都の北部・大江山の麓で生まれた<ぼっちゃん>は、思いがけない眼病によって幼児期に失明しました。家族の愛情に包まれて育ちますが、特に父親の「目が悪いから、家の外にも出すまい、なんでも代わりにしてやろうというのではなく、まず、どこへでも連れ出す」という子育ての方針が、体験を通じた外界認識を豊かに養い、青年期以降の探究心や行動力の基礎を培いました。
  • <ぼっちゃん>の就学は、一般の子よりも遅れましたが、京都盲唖院や東京盲学校で、普通教科や英語・点字、文学・理療を学びました。京都時代すでに<盲界の改革者たらん>と訴える鋭さを発揮し、東京時代にはロシアから来日した盲目のエロシェンコやハワイから訪れたアレキサンダー女史などとの出会いを通じてエスペラントを学び、世界を意識するようになりました。新宿・中村屋を舞台に、文人や画家との交友も重ねました。
  • 東京盲学校を終えた大正期には、幼稚部もある理想的な「日本盲学校」づくりを構想して募金に奔走したり、眼の見えない子のために点字の定期雑誌『ヒカリノ ソノ』を発行したりしました。そのエネルギーの根底には「新しき本を買い来てこの本がみな読めたらと匂いかぎおり」と歌わねばならなかった少年期の絶望感に似た悲哀がありました。
  • 昭和期の視覚障害教育・リハビリテーション・福祉・文化を「みじめ」と捉え、その<革新>を求め続ける人生でした。エスペラントを通じて、世界各国の最先端の情報を収集し、ヨーロッパやアジアには足も運んで知見を得ました。<ぼっちゃん>は、後輩たちに「世界に目を」と語り続けたと伝えられています。
  • 戦後、ヘレン・ケラーが3度目の来日を果たした折り、彼女は京都府立盲学校の講堂でスピーチを行いました。そのとき、歓迎の挨拶を述べたのが<ぼっちゃん>でした。熱をこめて発された一言一句に、日本の視覚障害者教育・福祉の抜本的な改革を目指す壮大な希望が描かれています。
  • <ぼっちゃん・鳥居篤治郎>は、「盲目は不自由なれど、盲目は不幸にあらず」という有名な詞を遺しました。その先進性を味わい直すとともに、「それならもう一度盲人に生れてもいいかと、問われるならば、それだけはごめんですと、言いたい。殊に、アジアの、日本の盲人として生まれることは、真っ平だと答えます」と述べた「絶望」の淵源に思いを馳せるべきではないでしょうか。そして、それでも、チャレンジし続けた鳥居篤治郎の志と夢を継いでいこうではありませんか。

略歴

1974年~  京都府立盲学校教諭(2016年2月現在.非常勤講師)
2011年~  点字毎日新聞に<盲教育史>に関する連載を執筆
2012年~  日本盲教育史研究会事務局長
2013年6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演
2014年7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で講座を担当
2015年3月 済生会新潟第二病院眼科勉強会で発表
2015年6月 「盲人と芸術」国際会議inロンドンで報告
2015年11月 NHK視覚障害ナビ・ラジオに出演(古河太四郎論)

参考

岸博実先生には、平成27年3月11日にも講演して頂きました。講演要約を以下に記します。
=================================
報告:第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岸 博実
演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長
日時:平成27年3月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3508
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後記

「盲目は不自由なれど、盲目は不幸にあらず」という鳥居篤治郎の言葉は有名ですが、実際には続きがあります。・・・「それならもう一度盲人に生まれてもいいかと、問われるならば、それだけはごめんだと言いたい。殊に、アジアの、日本の盲人として生まれることは、真っ平だ」。彼が味わった困難や絶望に思いを馳せながらこの一文を読むと味わい深いものがあります。
毎回、岸先生には素晴らしい講演を頂いております。益々のご活躍を祈念致します。

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