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臨床からの学び・発展・創造・実現

報告:第237回(15-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会 郷家和子

演題:「臨床からの学び・発展・創造・実現」
講師:郷家和子(帝京大学)
日時:平成27年10月14日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4157

講演要約

1.視覚欠陥学講座との出逢い
 学部3年生からの専門課程には教育哲学・行政学・社会学・心理学の4学科があり、その中の心理学科心身欠陥学視覚欠陥学講座を選択した。その理由は、1963年作家の水上勉氏が重複障害児への療育サービスを求めた「拝啓池田総理大臣殿」という公開状(中央公論6月号)や島田療育園を見学した兄の話からの影響、さらに進路選択での視覚欠陥学講座の小柳恭治助教授の助言等であった。

2.東北大学教授時代の原田政美先生
 原田先生は、1965年に東京大学医学部附属病院から視覚欠陥学講座の教授として赴任された。赴任以前から眼科のリハビリテーションに関心を示され、すでに弱視レンズの開発・普及に取り組まれていたし、大学においても小柳助教授とともに東北大式盲人用レーズライタを考案された(1967年東北大学教育学部研究年報:「盲人用レーズライタの試作とその性能に関する実験」)。
 先生からは眼科に関する医学的な基礎知識や種々の検査技術、アメリカでの晴眼児と視覚障害児の統合教育についての演習、宮城県内の視覚障害者判定業務である巡回相談に同行し現場での診療や相談のあり方に関する臨床学習も体験させていただいた。先生は常に物事を考える際に「Neues(新しいこと) は何か。」、また「それは視覚障害者・児に役立つ実践的な有効な方法および補助具になり得るのか。」を検証
するよう求められた。なお、先生は大学を3年勤められた後、美濃部都政2年目の1968年に民政局技監として心身障害者福祉センターの初代所長職に就かれ、リハビリテーションの分野に身を置かれることになった。

3.東京都心身障害者福祉センターの職務内容
当時センターは1)障害者更生相談所業務、2)リハビリテーション業務、3)地域支援業務、4)開発業務等を職務とする全国でも最先端の施設であった。開発業務で生まれたロービジョン者向けの視覚補助具には、拡大読書器と遮光眼鏡がある。拡大読書器は1971年に視覚障害科科長村中義夫氏と株式会社ミカミとの共同開発により製品化され、1993年に日常生活用具に指定された。遮光眼鏡は1989年にレンズメーカー・ホヤと共同開発し、1992年に補装具として認定された。

4.センターでの訓練・支援業務
私が係わった訓練および支援業務で特に印象深い8事業を年代順に紹介したい。
1)視覚障害者電話交換手養成訓練(1971年)
視覚障害女性の経済的自立を目的とした職業訓練の電話交換手養成に携わるために1ヶ月間電話交換手養成機関で学び資格を取得した後、センターの電話交換機保守点検担当電話局から交換機2機の寄贈を受け訓練環境を整備した。視覚障害者の着信ランプ確認速度を高めるために感光器(ライトプルーブ)をセンター内併設財団法人心身障害者職能開発センターとの協力により開発した。電話交換手は当時視覚障害者の新職業として関心がもたれ、訓練を受けるために都内に住所を移動する方々が少なくなかった。1960年に身体障害者雇用促進法は制定されていたが、弱視者の就職に比して全盲者は困難であった。この養成訓練は一定の成果を得たことにより、開始2年後に上記の併設心身障害者職能開発センターに業務移管され、視覚障害科での養成訓練事業は終了した。

2)盲人用読書器オプタコンによる指導(1974年)
オプタコンは1971年にアメリカで開発され、1974年に日本に導入された。この器機は紙面上の文字を小型カメラで捉え、その文字の形を人差し指の指先位の大きさの触知盤に表示されるピンの振動パターンに変換して呈示するもので、視覚障害者が普通の文字をそのまま読めるという画期的な器械であった。文字ではなく世界初の楽譜読みの指導法を開発したことは、私にとって大きな誇りとなっている。オプタコンは視覚障害者の職域拡大や中途失明者の現職継続を可能にし、かつ現在でも種々の場面で使用され続けているものの、技術の進歩により音声パソコン使用へと大きく変遷した。

3)視覚障害者の司法試験受験時間延長への支援(1978年)
司法試験管理委員会宛に強度の弱視者2名の受験に際して拡大読書器・弱視眼鏡の持ち込みと受験時間延長の必要性について、実証研究の結果を受験者の要望書に添えて提出した。2名は補助具の持ち込み及び試験時間の1.5倍延長が認められた。これ以降、大学入試や公務員試験等でも補助具持ち込みの弱視者に対する試験時間延長が一般化し、試験の延長時間は全盲1.5倍、弱視1.33倍とされた。

4)網膜色素変性症者支援(1988年)
センター来所の網膜色素変性症者への精神的な支援が必要との判断から、障害福祉サービスの情報提供とグループ別懇談をセットにした懇談会を9年間毎年3回実施した。より充実した懇談会発展のために10回のピアカウンセラー養成講習会を開催し、個別支援援助の手法学習会も設定した。事業終了後は、センター方式のピア懇談会や種々の自助グループ設立へと継続され、活動を続けている。

5)「視覚障害理解」の出前講習会(1995年)
講習会は3年間にわたって、希望病院の医療従事者を対象に業務終了後出張して実施した。身体障害者手帳取得後の福祉サービス、病院内誘導法、視覚補助具やADL関係の便利グッズの紹介等を行った。看護師が失明した入院患者さんに持参した用具を試用し、見えなくてもできることがあると新たな生活の再構築を目指す生活訓練施設入所まで発展した事例もあった。

6)指定医講習会開催(2003年)
指定医に補装具取り扱い改正等に関する情報提供の必要性があると考え、指定医を対象とした定期的な講習会開催を提案した。以来センター主催で身体障害者指定医講習会が毎年実施され、併せて身体障害者手帳診断書作成の手引き書が指定医に配布されることとなった。

7)補装具遮光眼鏡給付対象者の要件改正(2010年)
補装具遮光眼鏡の適用範囲は、1991年網膜色素変性症に限定、2005年に網膜色素変性、白子症、先天無虹彩、錐体杆体ジストロフィーに拡大されたが、遮光眼鏡が他の眼疾患にも効用ありとの論文が多数発表された。2006年に日本ロービジョン学会内に岡山大学守本典子眼科医と大阪医科大学眼科中村桂子視能訓練士と私の三人で補装具遮光眼鏡検討委員会を立ち上げ疾患名廃止への検討を重ね、その後厚生労働省に補装具遮光眼鏡検討委員会7名の名で4疾患以外への適用要望書を提出した。厚生労働省との膨大な量の交信を3年余行い、2010年3月31日に厚生労働省から疾患名の廃止という一部改正の通知が発出された。

8)教材・教具・指導書等刊行物
所属部署では視覚障害児者のさまざまな指導訓練に関する専門技術の確立と体系化の成果を技術書として刊行した。福祉保健局長賞受賞刊行物には、1991年「弱視レンズの選択と指導」、1994年「ガイドヘルパーの技術書」、2005年「身体障害者福祉法・知的障害者福祉法実務手引き書」がある。

5.まとめ
私は原田先生ご在職中のセンター、まさにリハビリテーション業務の最盛期に在職したことで、利用者の方々から多くを学び同僚と議論しあいスーパーバイザーから指導を受け、常に新しいことに挑戦し続けられたという幸運に恵まれた。臨床で提示された課題から解決に向けてこれまでにはなかった発想から指導法を考案し実現できたときには、役に立てたという安堵感とともに次の仕事への活力を得ることができた。
本年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村智(さとし)氏が「研究は研究のためにやるのではなくて、人に役立つ、人のための研究をすることが大事」と言われたが、まさに原田先生からの教えを聞く思いであった。
現在視能訓練士を目指す学生たちの教育に携わっているが、患者さん一人ひとりのために何をすべきかを考え実践できる精神を持ち続けられる学生を育成するためにも、私自身もさらに研鑽・努力していきたい。

略歴

1971年 東北大学大学院教育学研究科修士課程修了
1971年 東京都入都(心身障害者福祉センター)
1973年 ドイツ Bethel(重度障害者施設)研修
2004年 東京都身体障害者福祉司
2009年 帝京大学医療技術学部視能矯正学科講師
2013年 日本ロービジョン学会理事
2014年 帝京大学医療技術学部視能矯正学科非常勤講師
現在にいたる。

後記

 素晴らしい講演でした。今回郷家先生に講演を依頼したのには目的がありました。
 東北大学教育学部に存在した「視覚欠陥学講座」は、日本で一番最初にできた視覚リハビリテーションを研究する講座です。その初代教授の原田政美先生は、東大眼科の萩原朗教授門下で斜視弱視を研究していた眼科医。萩原教授の退官と共に、東北大学教育学部の教授に就任しています。そこで行ったことは、視覚障害者のためのリハビリテーション。私が知る限り、我が国の国立大学でこの分野では草分けです。神経眼科で有名な桑島 治三郎先生も東北大学教育学部視覚欠陥学講座の教授です。一流の眼科医が視覚リハビリの研究をしていたことに感嘆しました。
 今、原田政美先生を知る人は少なくなりました。そこで東北大学での愛弟子であり、東京都心身障害者センターでも一緒に仕事をなされた郷家先生に、原田政美先生、東北大学教育学部視覚欠陥学講座のことをお話し下さるようにお願いしました。
 郷家先生は、このような無理なお願いにもかかわらず、丁寧に欠陥学講座のこと、原田先生のことをお話しして下さり、そしてご自身が関わってきた視覚障害リハビリのお仕事をお話しして下さいました。実は、この部分がとても魅力的でした。
 アッという間の50分でした。常に患者さんの一人一人のためを思い続けて研究してきたこと、新しいものを求め続けたこと、大いにインスパイア―されました。
 郷家和子先生の益々のご発展を祈念致します。

フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業

案内:第238回(15‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 田中正四

演題:「フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業~工夫を重ねて子供たちの心をキャッチ~」
講師:田中正四 (胎内市)
日時:平成27年12月02日(水)16:30 ~ 18:00 
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  
http://andonoburo.net/on/4152

抄録

 2010年の夏。盲導犬(グティ号)を貸与された私は、数年前から取り組んでいた学校への総合学習での心構えも従来の体験型説明から盲導犬の啓発啓蒙活動へと大きく話の内容も変わってきた。

 私達の通う(新発田音声パソコン フィンゲル)では出前授業と称して総合学習に精に力的に取り組んでいるが、従来は、ボランティアの皆さんの協力と計画の基に障害と生活の様子の説明が中心とする出前授業への取組であった。しかし、フィンゲルのスタッフ減少に伴い、障碍者自身による計画立案から授業進行、各人の講話概要までの授業全体スケジュールを私達がになう事となった。

 フィンゲルは、毎週月曜日の開催であり、透析患者の私にも時間が確保できる事からせめてもの社会貢献のつもりで、精力的に取り組んできた。出前授業の依頼を受けた時点からフィンゲルのリーダーを中心に計画を立案し、各人の担当を決定し、時間配分までのスケジュールを決めて授業に取り組む事となったのである。

 今回は、フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業における工夫の数々と子供たちと心を通わせたエピソードを失敗談を交えてお話したい。さらに、会社務め時代で学び得た手法を生かす事ができた事も忘れかけていた会社員生活を思い出し、無駄ではなかったと喜びさえ感じている。その中でも、(計画、実行、確認、改善)のサイクルを繰り返す重要性についてもお話しさせていただきたい。

略歴

1952年 長岡市(旧越路町(生まれ
1968年 日立制作所入所
2003年 腎不全により透析開始
2007年 視覚障害1級
2007年 日立製作所退社
2010年 盲導犬貸与される

ネット配信

 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力によりネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
 当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

眼を見つめて50年

報告:第235回(15-10)済生会新潟第二病院眼科勉強会 藤井 青

【目の愛護デー記念講演会 2015】
「眼を見つめて50年ー素晴らしい眼科学の進歩と医療現場における問題を顧みる」
講師:藤井 青(ふじい眼科)
日時:平成27年10月14日(水)16:30 ~ 18:00 
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4107

講演要約

 演者が眼科医となって約50年になるが、この間の眼科学の進歩には誠に目覚ましいものがあった。医療現場にも新しい検査法、検査機器が導入され、多くの疾患概念が塗り替えられた。当然のことながら治療法も変わった。処置や手術法も日進月歩の変遷で、眼科医療は所謂「レッドアイクリニック」から「ホワイトアイクリニック」へと一変した。しかし、この素晴らしい医学の進歩が現実の医療に本当に生かされているのか? 過去を顧みながら日常的な問題について、いくつか振り返ってみた。

 今回の研究会の参会者は眼科医療従事者でなく一般の方だったので、まず現在の眼科医療の実態を過去と比較しながら説明、その後、医療現場でよく遭遇する眼科医療の問題について検討した。徒然なるままに、さまざまな話に脱線しながらの講演であったが、日常的に経験する点眼薬治療における問題点を中心に以下に要約する。

 薬剤が病巣部に効率良く到達し、関係のない組織には行かないというのが薬物療法のポイントである。全身投与では薬剤は主に血液を介して病巣部へ運ばれるが、全身への副作用が懸念されるだけでなく、眼内には血液に対するいくつかの関門があるので効率が悪い。眼疾患では点眼が薬物療法の基本となる。50年前には想像できなかったほど多くの点眼薬が開発され、様々な病変に対応できるようになった。しかし、実
際に適切に使用され、治療効果が得られているのであろうか?という疑問がある。

1)処方した点眼薬の使用量(残薬)のチェックが必要!
結膜嚢の中に入る液量はたかだか30?。点眼瓶の形状や材質にもよるが、ここからの1滴は約50?とされるので、点眼量は1滴で十分ということになる。

 点眼液量を増やしても眼外へあふれ出るか、涙液と同様に、瞬目によって涙点から涙嚢、鼻涙管、鼻腔へと排出されてしまう。点眼量を増やしても効果が期待できないだけでなく、鼻腔などからの吸収による全身への副作用が強まる危険がある。点眼薬がすぐなくなるという人にはきちんと点眼方法を指導する必要がある。一方、残量の多い人も少なくない。点眼忘れもあるが、極端に結膜嚢に近づけて点眼するために、
一度結膜嚢に入った薬液を点眼瓶のスポイト作用で再吸引して、薬剤が汚染されている場合があるので注意したい。

 処方後の経過日数からして残薬があるとは思えないのに薬が無くなりそうで再来したという人もいる。少なくとも開封して1ヵ月以上経過した点眼薬は捨てるように指導したい。

2)点眼薬の性質、効能効果と副作用の観点から点眼方法を再考する!
①薬剤ごとに異なる点眼回数
 点眼薬の濃度は、一般に眼内の最高濃度が最少有効濃度の5~6倍程度になるように設定されているが、最少有効濃度までに低下する時間は、薬剤と作用すべき眼組織によってそれぞれ異なる。そのため1日の点眼回数は薬剤ごとに異なっている。1日2回しか点眼できない事情のある人には、1日4回用の薬を2回点眼するよりは1日2回点眼でよい薬剤を選択すべきである。

 アドヒアランスの問題もあり、点眼回数の少い薬が増加、配合剤の開発も進んでいることは喜ばしいことではあるが、点眼回数の少ない薬の中には水に溶けにくく吸収されにくいものがあるので、他剤との点眼間隔や順序に対する配慮が必要である。

②多剤点眼の場合の点眼順序
 水溶性点眼薬同士であれば、より効果を期待したい薬を最後に点眼する。水溶性点眼薬と懸濁性点眼液であれば水溶性を先に点眼する。懸濁性点眼液やゲル化する点眼液は最後に点眼する。

③点眼後両閉瞼、涙嚢部圧迫、2剤以上点眼では5分間隔を間けるという方法が本当にベストか?
 点眼薬が2種類、時に3種類以上処方されることがある。点眼直後にかなりの量の薬が涙嚢に吸い込まれ、さらに点眼の刺激で涙が出て結膜嚢内の薬物濃度は急激に薄まる。点眼直後に50%程度に減少するが3分後でも?%程度は残っているといわれている。結膜嚢内に未だ残っている薬剤を次の点眼薬で洗い出さないために5分位間隔を開ける必要がある。

 全身への副作用の懸念される点眼薬では、薬の効果を高め、副作用を減らすためには、薬が涙嚢に吸い込まれないように工夫する必要がある。これには点眼直後に両眼を閉瞼し、眼と鼻の間の涙嚢の上を指で押さえる方法が推奨されている。演者もβ遮断点眼薬の全身性副作用の回避のため、この方法を追試したことがある。そして、この方法の有効性は確認できたが、同時に、患者自身に行ってもらった経験では、涙嚢部が正確に同定できないために指の動きで涙嚢にポンプ作用が起こり逆効果となるという不確実性も体験している(s遮断剤チモプトール点眼の全身への影響と対策?特に点眼方法について?,眼臨,1198ー1201,1984)。現在、演者自身は両眼の閉瞼のみを指示している。

3)緑内障の点眼薬治療における問題点
・リズモン TG、チモプトールXE、ミケランLA、エイゾプトなど、水に溶けにくく吸収されにくい薬剤の点眼の留意事項は前項で述べた通りであるが、通常は単剤投与されるので問題ない。
・点眼方法に於ける一般的留意点も前項で述べた通りである。
・問題点は、現在第一選択として評価されているプロスタグランジン関連製剤の点眼方法である。

 特に調剤薬局(特にまじめなスタッフの多い薬局)における点眼指導が時に問題になる。眼圧下降の得られない患者にどのように点眼しているか聞き直すと、点眼後まもなく風呂に入り顔を洗っているという人が結構いる。薬局などでかなり強調して説明を受けている例もあるようである。青い目で肌も白い人種と違って日本人ではさほど強調すべき副作用であろうか? 治療の目的を理解して本末転倒にならないような説明を期待したい。

 一方、本剤の無効例があることが知られているためか簡単に他系列の薬剤に切り替えられことも少なくない。しかし、緑内障の治療は一生続く治療である。有力な治療薬を簡単に無効として切り捨ててよいものであろうか? もしかしたら点眼方法が不適切であったということはないか? 再検討する必要を強調したい。

4)薬の名前がわからない(・・・色の薬がほしい)
・患者さんにとって薬の名前を正確に記憶することは至難なことではないか? 一番多いのが青色の薬 が無くなったというような色による情報だが、瓶の色であったり袋の色であったり、キャップの色で あったり、掴みどころがない。我々としては一日4回点眼の薬? 2回の薬? などの質問で絞ってさらに写真や実物を見せて確認するしかないが、後発薬品が際限なく増加するとお手上げになる。

5)後発医薬品とはなにか? 日本の眼科医療における問題点
・日本の後発薬品と欧米のジェネリック医薬品とは異質なものである。欧米のジェネリックは主成分だけでなく添加物なども先発薬剤と全く同じものだが、日本は主成分が同じであれば同じ薬と認めているものである。
・前述した緑内障治療薬の原点ともいえるプロスタグランジン(商品名:キサラタン)を例示する。日本緑内障学会の調査結果では後発薬品が23種類もあった。国の方針にそって今後更に後発薬品の増加が予測されるが、名前も異なれば容器(色)も全く異なる後発薬品による現場での混乱は想像を絶するものがある。
@後発薬品:日本緑内障学会の調査結果 
http://www.ryokunaisho.jp/infomation/data/eyewash_ver3.31.pdf

6)薬の販売申請(適応、薬価、など) 
 有用でも薬が眼科の適応がない薬。保険採用されても適応が狭い薬。高額で眼科医療を圧迫する薬。
 薬剤の製品化、薬価などは製薬、販売会社の経営方針が先行し、ユーザー(医療機関)のニーズにはなかなか答えてくれない現実がある。先発メーカーや後発メーカーで競い合うのではなく、患者のためにどのようにするのが良いか、営利だけでなく、医療の原点に立ち返って検討してほしいと願っている。

略歴

1970年 新潟大学大学院医学研究科修了後、新潟大学文部教官医学部(医学博士)
1973年 新潟市民病院に転任。眼科部長、地域医療部長、診療部長を歴任。
2004年 新潟市民病院定年退職。新潟医療技術専門学校視能訓練士科教授就任。
    にいつ眼科名誉院長、新潟県眼科医会会長として地域医療に係る。
現在は、新潟市江南区ふじい眼科名誉院長、新発田市今井眼科医院顧問

後記

 長い間、新潟市民病院の眼科部長を務められ、新潟県眼科医会会長も歴任された藤井青(ふじい しげる)先生が、眼科医としての50年を振り返り、眼科の疾患の診断と治療の歴史を、問題点も含め丁寧に解説して下さいました。
 70枚を超えるスライドを駆使し、体験してきた約50年間の眼科医療を振り返りながら、素晴らしいこの眼科学の進歩をいかに眼科医療の現場に生かすべきかについてお聞きした貴重な講演でした。いつもながら、豊富な知識と奥深い思慮に感服致しました。
 藤井先生には益々お元気でお過ごし下さい。そして、我々後輩のご指導ご鞭撻をお願い致します。

街歩きを通して考える社会の視覚障害者観と当事者の心理

報告:第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子

演題:街歩きを通して考える社会の視覚障害者観と当事者の心理
講師:清水美知子(フリーランスの歩行訓練士)
日時:平成27年9月9日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4065

講演要約

 視覚障害がある人の歩行訓練は人々が活動している実環境で行われることに大きな特徴がある。そこで訓練士は視覚障害がある人と街の人、そして双方のインターラクションを観察する。
 南雲(2002)は、障害によってもたらされる心の苦しみには、自分の中から生じるものと、自分と社会の関係から生じるものがあり、前者の苦しみを軽減するためには新たな自分を知り受け入れる「自己受容」が、後者のためには社会が障害者を受け入れる「社会受容」が必要であるとしている。

 私は「街を歩く」ことがこの二つの受容を進めるのに役立つと考えている。視覚障害がある人は、街を歩く自分と自分に対する街の人の態度を観察することを通して自分を再形成する。一方、街の人は視覚障害がある人を見たり言葉を交わしたりすることで、各々の障害者観を形成していく。

「街を歩く」ことは、街の人々(社会)に対して自分をさらけ出すこと(Coming-out)でもある。視覚障害を隠すには、動かなければよい。視覚障害のある人が座って前を見ているだけでは、その人の視覚障害を疑わせる手がかりを見つけるのは難しいが、その人が立ち上がり一歩足を前に踏み出せば、視覚障害の存在を隠すのは難しい。つまり視覚障害のある人にとって街に出ることは、否応のない自己開示なのである。

 街には、見返すことのできない視線、予測できない態度の人々が待ち受けている。そのような好奇な眼の中へ足を踏み出すのは、自分が思っている以上に心の強さが要る。視覚障害によって自尊心が傷つき自信を失っている状況にある人にとっては、さらにその負担は大きい。障害を負った後、自分自身を再形成する段階では、自分を周囲にどう見せようか迷っている状態のため、外には出たいが、自己開示はしたくないという気持
ちになる。足元が見えにくく歩くのに不安を抱えながらも、あたかも眼は悪くないかのように振る舞いがちである。そのため、外出中、白杖を出したり、場所や状況によって折りたたんで鞄の中にしまったりしながら歩く人もいる。社会に対する自己開示のハードルは決して低いものではない。今回の勉強会に参加した盲導犬使用者のひとりが「盲導犬と出かけたら度胸が決まり、乗り越えられないでいた垣根を越えられた」「杖は折りたためるけど、盲導犬は折りたためない」と語ったが、それはこのような状況での話だろう。

 対人関係における自己開示、コミュニケーション、気づき、自己理解などを説明するのに、「ジョハリの窓」というモデルがある。そのモデルでは自分を「公開された領域」「隠された領域」「自分は気づいていないが他人には見られている領域」「自分には他人にもわからない領域」の4つの領域に分けている。障害を負うとそれまで認識していた自己概念や自尊心が壊れ、それを再認識しないと新たな自分を形成できない。自分がよくわからない段階では解放された領域が小さい。例えば、今自分が外を歩いたらどのように歩くか、見えなくなって家から出てない人にはわからない。街に出て自分の歩く姿を人に見せ、見た人のリアクションを受け止めることは、自分自身を知るプロセスとして大切である。そしてそれは同時に街の人の意識を変えることにも役立つ。

 講演後、視覚障害のある参加者(盲導犬使用者5人、白杖使用者1人)に街を歩いているときに経験したことについて質問した。多くの回答は街の人から受けた親切で優しい応対についてであった。そこで、あえて嫌な思いをしたことや辛かった経験についても聞かせてもらった。以下はその一部である。

・突然、汚い言葉や罵声を浴びせられた
・「俺がお前を襲ったら、この犬(盲導犬)はどうする?」と脅された
・帰路、付きまとわれたので、遠回りをして家に帰った。
・「他のお客さんに迷惑なので」とコンビニや飲食店で入店を拒否された
・「見えない者は外を歩くな、見えないのになぜ外を歩く」と言われた
 そのほか、遠慮のない好奇心から質問された、上からの物言いをされた、無視された、避けられた等の経験談が挙げられた。

 一般に障害がある人に対する街の人の態度を決める要因には、知識、接触経験、能力観、価値観、ステレオタイプ、相手の態度などがあるといわれる。当事者の数少ない体験談、テレビ番組で紹介される「がんばる障害者」などが、個々の街の人が時折視覚障害のある人と遭遇したときに示す態度に影響を与えているのであろう。社会の障害者への態度は一朝一夕に変わるものではなく、法で規制できるものではない。街の中での一期一会が、社会の障害観を形成するひとつの要因として機能するものと思われる。

 今回の勉強会で、視覚障害のある人から、移動支援、買物介助、代筆代読、通院介助等、福祉サービスが濃くなることで、視覚障害のある人と街の人との直接的な交流が少なくなってきているのではないかと心配する発言があった。視覚障害のある人の多くは高齢で、加齢に伴う身体機能や認知機能の低下を考えると、同行援護従業者、ホームヘルパーなど福祉専門職との外出機会が増えていると思われる。外出のための支援が、一方では街の人との間の垣根となる側面があることを、サービスを提供する側も利用する側も共にしっかり認識しておく必要がある。

参考資料

・南雲直二(大田仁史監修):リハビリテーション心理学入門−人間性の回復をめざして. 荘道社. 2002
・清水美知子:「Coming-out, 自分になる」、済生会新潟第二病院眼科勉強会. 2002年8
・ジョハリの窓:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョハリの窓

略歴

1979年~2002年
視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅視覚障害者の訪問訓練事業に関わる
1988年~
新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて、視覚障害リハビリテーション外来担当
2002年~
フリーランスの歩行訓練士

参考までに

カミング・アウトに関する清水先生の過去の講演録を、以下に記します。
●報告:第76回(2002‐9月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 清水美知子
日時:2002年9月11日(水)16:00~17:30
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
演題:「Coming out –人目にさらす」
講師:清水美知子 (信楽園病院視覚障害リハビリ外来担当)
http://andonoburo.net/on/4023

●報告:第87回済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子
日時:2003年8月20日(水) 16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
演題:「Coming-out Part 2 家族、身近な無理解者」
演者:清水美知子(歩行訓練士)
http://andonoburo.net/on/4030

後記

 清水先生は、障害者の目線でお話の出来る方です。「NBM(Narrative-based Medicine;物語と対話による医療)」とか、「社会受容」ということを最初に教えて頂いたのが清水美知子先生でした。
 当院で開催する講演会や勉強会には清水先生を、ほぼ毎年をお呼びしていますが、先生の講演の日は、いつも多くの視覚障害者の方が出席します。どうしてなのか不思議でしたが、答えが判りました。今回の勉強会に、こんな感想が届きました。「清水先生のお話を聞くと『あるある』とか『そうそう』とか『そうなのよ』とうなづくことばかりで、どうしてそんなに分かるのかなあといつも不思議にさえ思います。でもだからこそ、この人は私達、視覚障碍者のことが分かる人、と安心して心が開けるので人気なのでしょう」。

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