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水枯れの大河 信濃川・千曲川に鮭の道を拓く

報告:第244回(16-06)済生会新潟第二病院眼科勉強会 加藤功

演題:「水枯れの大河 信濃川・千曲川に鮭の道を拓く」~信濃川・千曲川がつなぐ ”いのち” のリレー
講師:加藤功(NPO法人新潟水辺の会)
日時:平成28年06月08日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4767

講演要約

 「かつて人は、川から水を引いて田を潤し、米を作ってきた。山では四季折々獲れる山の幸と、川では魚や蟹などを獲り、日々その日の食料としてきた。まさに、山河が人々の生活の源であった。明治以降近代技術の発展によって、川の水の利用範囲は広がり、飲み水、工業用水、水力発電と広がっていった。」
 「そして私たちは、山や川や水などを省みることのない生活となり、普段人はその恵みを享受した生活を送っている。今私たちは、川の災害を考えるだけでなく、川からの恵み、川の歴史、川文化を後世に伝えてゆく事が求められている。」

信濃川と鮭

 信濃川は、甲斐(山梨)、武蔵(埼玉)、信州(長野) 3県境に位置する甲武信岳(2,475m)に源流を発する流路延長367km、年間流量160億m3/s、流域面積11,900km2を有する我が国を代表する河川である。
 上流部長野県内では「千曲川」と呼び、新潟県では「信濃川」と呼ばれ、平安時代以降わが国屈指の鮭の生産地として知られ、河口から300km上流の長野県松本や上田まで、秋になると数万尾の鮭が遡上する自然豊かな河川であった。平安初期に書かれた「延喜式」には、信濃国より大和朝廷への鮭の献上記録が多く残されている。
 昭和10年代に始まった国策の電源開発により信濃川や千曲川での大規模なダム建設が始まると、ダムの落差による減水区間と無水区間が発生し、信濃川中流域より上流に鮭の姿が消えた。これは生態系や河川環境の保護より、経済やインフラを優先した結果であった。

水害と川の恵み、そして食文化

 「鮭」は、全国的に「鰤(ぶり)」と並ぶ“年取り魚・食文化”であり、西の「鰤文化圏」に対して、越後以北を「鮭文化圏」と称し、かつてどこの河川でも鮭が遡上していた。流域に住む人々は、遡上する鮭や鱒などの魚を食べ、川と密接な関わりを持っていた。
 しかし川は、水害というものを同時に抱えている。経済の発展とともに人々は川に背を向けるようになり、「良い子は川で遊ばない」の看板や川の災害については人が語るが、自然と人間の付き合い方や折り合いについて考えることが無くなっている。

鮭の稚魚放流

 大河・信濃川・千曲川水系で、産卵・孵化した鮭の稚魚が安全に日本海まで降り、3~4年後に太平洋で育った成魚が再び河口新潟から長野へ遡上できるかつての河川環境を夢見て、新潟水辺の会は10年前より活動を始めた。
 なぜ鮭が遡上出来ないかなどの問題点を調査すると共に、千曲川へ鮭を戻すため、地球環境基金、三井物産環境基金の助成支援を受けて、9年間で190万尾の稚魚を、千曲川・信濃川に放流してきた。

65年振りの鮭のヤナ落ち

 鮭稚魚放流を始めて3年目の平成22年10月20日、実に65年振りに信濃川の河口より254km上流の上田市の千曲川にある中山ヤナに、体長60 cm、体重1.6 kgのメス鮭が落ちた。(ヤナ場に魚がかかることを上田では「ヤナ落ち」と言う)2年後の平成24年11月13日、同じヤナ場に体長56 cm、体重1.7kgのオス鮭が落ちた。
 その後、2016年11月25日から12月3日にかけ立て続けに5尾の鮭がヤナに落ち、連日新聞・テレビで取り上げられた。5尾ヤナ落ちしたことはその数倍の鮭が千曲川へ遡ってきたことを意味している。

レッドマウス病の発生、鮭の稚魚偶然の発見

 2015年2月上旬、石川県で国が魚類の特定疾患に指定しているレッドマウス病が国内で初めて発見された。この病気は、①人には感染しない、②死亡率は、急性型で30~70%、③発生水温は13℃以上で、ほとんど全ての鮭科魚類(ニジマス、イワナを含む)に感染する特徴がある。
 長野県は海なし県である為漁業は、河川と養魚場の魚をメインとしている。その為長野県より稚魚放流の自粛要請があり、2016年春の稚魚放流を中止した。そんな中の2016年2月、千曲川の中流部において鮭の稚魚1尾が偶然発見された。私たちのこれまでに稚魚放流した鮭が大きくなり、故郷の千曲川に戻ってきたことを意味している。

発眼卵の河床埋設放流

 当会は鮭を遡上させるだけの団体ではなく、鮭を河川環境回復の指標とし、信濃川・千曲川での生物循環経路を将来にわたり、持続可能な環境での復元を願っている。これまで信濃川の支川・能代川に遡上した鮭を採卵、人工ふ化させ大きくなった稚魚を千曲川へ放流することで千曲川への鮭の回帰を目指してきた。今後は人工ふ化放流に頼るだけでなく、鮭の発眼卵の河床埋設による自然孵化の定着を図る。それが我が郷土の誇りである信濃川を、生物の豊かに生存する普通の河川に戻すことの一環であると考えている。

「人間が生きてゆくための環境は、決して機能や経済効率だけで成り立つものではなく、『記憶』される環境の創造こそが大切なのではないか。今後私たちは、先人の行ってきた「自然と共生してきた人の暮らしや文化を再構築」することが求められている。

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@特定非営利活動法人 新潟水辺の会ホームページ
http://niigata-mizubenokai.org/
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後記

 信濃川のこと、千曲川のこと、鮭の遡上のこと、、、知らないことばかりでした。冒頭の言葉は、重みがありました。「かつて、人は川で魚や蟹などを採り、川から引いた水で田を耕して米を作り日々の糧としてきた。川は人々の生活を支え、そこに生まれた知恵や文化は長く受け継がれてきた。まさに、山河が人々の生活の源であった。」「明治以降近代技術の発展によって、川の水の利用範囲は広がり、飲料水・農業用水だけでなく、工業用水・発電用水として利用されるようになり、私たちはその恵みを一方的に享受するのみで、川や水を省みることのない生活に慣れ、川の自然環境や川文化が破壊されるのを傍観し続けてきた。」

 子供が小さいころ、「川のそばで遊ぶと危ないよ」とよく注意したものでした。川の水は、水力発電や水田に利用できる恵みの水とも思っていました。水害から街を守るため堤防が造成され街中ではコンクリートに囲まれた川になっている風景に違和感はありませんでした。でもそうしたことが川を中心とした生態系に大きく影響していたことに初めて気が付かされました。

 金言が満載の講演でした。「採れるだけではなく、必要なものだけ採る」「足るを知る」「「鮭が海の栄養を山に運ぶ」「鮭文化」、、、、水力発電は安全な電力を提供してくれると単純に信じていたのですが、川の自然や鮭の遡上に大きな影響のあること、、、、そうだったと納得でした。
 そして稚魚の放流を行っている団体のあること、様々な取り組みの成果で少しずつ鮭の遡上が増えてきていること、ダムの放水の工夫により鮭の遡上に効果を上げることが出来ること等々、講演の中では多くの写真や資料を基にお話し頂きました。何よりもこんな活動を地道に行っているグループがあることを知ることが出来、感謝する次第です。

 講演の最後は、以下の様なお言葉でした。「当会は鮭を遡上される団体ではなく、鮭を河川環境回復の指標とし、信濃川・千曲川での生物循環経路を将来にわたり、持続可能な環境での復元を願っている。」
 自然への深い想いと追求、「新潟水辺の会」の活動に感動しました。 新潟水辺の会の、そして加藤功さんの益々の発展を祈念致します。

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加藤さんから、以下のYou Tubeを紹介して頂きました。
 我家の盲導犬物語
 https://www.youtube.com/watch?v=Xk0R9XvLytg
 東日本大震災 藤沼ダム決壊
 https://www.youtube.com/watch?v=Li_–_uHW60
 私と関屋分水路
 https://www.youtube.com/watch?v=aqNWiRUXpVY
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新潟盲学校弁論大会 イン 済生会

案内:第245回(16-07)済生会新潟第二病院眼科勉強会 新潟盲学校弁論大会

済生会新潟第二病院眼科で、平成8年6月から毎月行なっている勉強会。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
1)中学部 2年 「熊本地震で思ったこと」
2)高等部 普通科 2年 「一番大切なもの」
日時:平成28年07月06(水)16:30 ~ 17:30 @第1水曜日です
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4754

発表の紹介

1)「熊本地震で思ったこと」新潟県立新潟盲学校 中学部 2年
 4月14日の夜に発生した熊本地震。熊本にいる親戚が心配で電話をしたら、「すごく怖かった」と言っていました。でも、おばさんが無事で良かったです。熊本の人たちを励ましてあげたいです。また、被災地で大変な人たちに負けずに、私も頑張ります。
 私が小さいときに新潟で大きな地震が2回ありました。日頃から地震に備えたり、近所の人たちとの絆を大切にしようと思いました。

2)「一番大切なもの」新潟県立新潟盲学校 高等部 普通科 2年
皆さんは人として何が一番大切だと思いますか?私は人間関係だと思います。私は良好な人間関係を築くのが難しく、辛い経験をしたことがありました。しかしある人との出会いが、私に変化をもたらしてくれました。
今回はその時のこと、そして良好な人間関係を築くために努力していきたいことについて、お話ししたいと思います。

Web配信

「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により実況ネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

案内:第244回(16-06)済生会新潟第二病院眼科勉強会 加藤功

演題:「水枯れの大河 信濃川・千曲川に鮭の道を拓く」

済生会新潟第二病院眼科で、平成8年6月から毎月行なっている勉強会。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。

講師:加藤功(NPO法人新潟水辺の会)
日時:平成28年06月08日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/4710

講演抄録

1.信濃川と鮭
 信濃川は、甲斐(山梨)、武蔵(埼玉)、信州(長野) 3県境に位置する甲武信岳(2,475m)に源流を発する流路延長367km、年間流量160億m3/s、流域面積11,900km2 を有するわが国を代表する河川である。
 上流部長野県内では千曲川と呼び、新潟県では信濃川と呼ばれ、平安時代以降わが国屈指の鮭の生産地として知られ、河口から300km上流の長野県松本や上田まで、秋になると数万尾の鮭が遡上する自然豊かな河川であった。平安初期に書かれた「延喜式」には、信濃国より大和朝廷への鮭の献上記録が多く残されている。
 昭和10年代に始まった国策の電源開発により信濃川や千曲川での大規模なダム建設が始まると、ダムの落差による減水区間と無水区間が発生し、信濃川中流域より上流に鮭の姿が消えた。これは生態系や河川環境の保護より、経済やインフラを優先した結果であった。

2.水害と川の恵み、そして食文化
 「鮭」は、全国的に「鰤(ぶり)」と並ぶ“年取り魚・食文化”であり、西の「鰤文化圏」に対して、越後以北を「鮭文化圏」と称し、かつてどこの河川でも鮭が遡上していた。流域に住む人々は、遡上する鮭や鱒などの魚を食べ、川と密接な関わりを持っていた。
 しかし川は、水害というものを同時に抱えている。経済の発展とともに人々は川に背を向けるようになり、「良い子は川で遊ばない」の看板や川の災害については人が語るが、自然と人間の付き合い方や折り合いについて考えることが無くなっている。

3.鮭の稚魚放流
 大河・信濃川・千曲川水系で、産卵・孵化した鮭の稚魚が安全に日本海まで降り、3~4年後に太平洋で育った成魚が再び河口新潟から長野まで遡上できるかつての河川環境を夢見て、新潟水辺の会は10年前より活動を始めた。
 なぜ鮭が遡上出来ないかなどの問題点を調査すると共に、千曲川へ鮭を戻すため、地球環境基金、三井物産環境基金の助成支援を受けて、9年間で190万尾の稚魚を、千曲川・信濃川に放流してきた。

4.65年振りの鮭のヤナ落ち
 鮭稚魚放流を始めて3年目の平成22年10月20日、実に65年振りに信濃川の河口より254km上流の上田市の千曲川にある中山ヤナに、体長60 cm、体重1.6 kgのメス鮭が落ちた。(ヤナ場に魚がかかることを上田では「ヤナ落ち」と言う)2年後の平成24年11月13日、同じヤナ場に体長56 cm、体重1.7kgのオス鮭が落ちた。
 その後、2016年11月25日から12月3日にかけ立て続けに5尾の鮭がヤナに落ち、連日新聞・テレビで取り上げられた。5尾ヤナ落ちしたことはその数倍の鮭が千曲川へ遡ってきたことを意味している。

5.レッドマウス病の発生、鮭の稚魚偶然の発見
 2015年2月上旬、石川県で国が魚類の特定疾患に指定しているレッドマウス病が国内で初めて発見された。この病気は、①人には感染しない、②死亡率は、急性型で30~70%、③発生水温は13℃以上で、ほとんど全ての鮭科魚類(ニジマス、イワナを含む)に感染する特徴がある。
 長野県は海なし県である為漁業は、河川と養魚場の魚をメインとしている。その為長野県より稚魚放流の自粛要請があり、2016年春の稚魚放流を中止した。
 そんな中の2016年2月、千曲川の中流部において鮭の稚魚1尾が偶然発見された。私たちのこれまでに稚魚放流した鮭が大きくなり、故郷の千曲川に戻ってきたことを意味している。

6.発眼卵の河床埋設放流
 当会は鮭を遡上される団体ではなく、鮭を河川環境回復の指標とし、信濃川・千曲川での生物循環経路を将来にわたり、持続可能な環境での復元を願っている。
 これまで信濃川の支川・能代川に遡上した鮭を採卵、人工ふ化させ大きくなった稚魚を千曲川へ放流することで千曲川への鮭の回帰を目指してきた。
 今後は人工ふ化放流に頼るだけでなく、鮭の発眼卵の河床埋設による自然孵化の定着を図る。これにより信濃川を、生物の豊かに生存する普通の河川に戻すことの一環であると考えている。

「NPO法人新潟水辺の会」
http://niigata-mizubenokai.org/

ネット配信

「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により実況ネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。

視力を失ってから「嬉しかったこと、役立ったこと」

報告:第243回(16-05)済生会新潟第二病院眼科勉強会 大島光芳

済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わりに読んで頂けましたら幸いです。

報告:第243回(16-05)済生会新潟第二病院眼科勉強会 大島光芳
演題:視力を失ってから「嬉しかったこと、役立ったこと」
講師:大島光芳(上越市)
日時:平成28年05月11日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4704

講演要約

1.はじめに
 2009年、59歳の時に職場の時計が見えず、移動にも支障をきたしていました。しかし定年退職までまだ1年あり、どうしていいかが分かりませんでした。このとき偶然に大学病院の廊下で、ロービジョン外来の文字を見つけてもらいました。受診したら、少し見通しが立つようになり、これを機会に、病気を理由として休職を決めました。このロービジョン外来を見つけたことが全ての始まりでした。
 現在の目の状態は全盲、明るさも暗さも感じません。見えないと目からの情報がないので映像の記憶ができません。記憶が極端に苦手になりました。今日は「音声ペン(タッチメモ)」を利用しながら話します。

2.私の日常
 全く見えませんが、家族の配慮があれば日常生活はできます。
 道具で最初に使いだしたのは携帯電話でした。携帯電話を音声ガイドがでるように設定してもらい、電話ができるようになると、社会との繋がりが保てました。その後も出会う人毎に番号と名前を登録し、私の脳の外部メモリーとしています。
 現在は音声訳された本をCDで聞く時間が一番長いです。聞くには音声再生装置(プレクストーク)を使います。本の選択は主に東京と新潟の点字図書館が紹介してくれた中から選んでいます。去年は 150冊を読みました。
 寝る前には「光メロディセンサー」で消灯を確認します。
 本を読みだしたのは2011年7月に「防災避難マニュアル」を読んで歩行補助具のパームソナーなどを知ったのがキッカケでした。この歩行補助具も愛用しています。

3.復活を目指して取り組んだパソコン
 2010年1月、パソコンのソフトを買いました。
 2月、パソコンでNHKラジオ第2放送「聞いて聞かせて ブラインド・ロービジョン・ネット」が遡って聞けるようになり、貪って聞きました。この年は就労支援の工藤正一さんによる「完全マニュアル中途視覚障害からの再出発」と長野県の広沢里枝子さんによる「ピアカウンセリング」と私と同じ年齢の岩井和彦さんによる「15歳の弁論」に励まされました。
 遡って聞いた2008年の放送に「検証ガイドヘルプ事業」があり、この放送をICレコーダに収録しパソコンで文章にすることによって、タッチタイピングもできる様になりました。文字入力の習得が先ではなく、楽しみを生み出すために操作を憶えるのが先。入力技術は後からついてきました。
 一生懸命にやることができると寂しさが一機に吹っ飛びました。入力ができたらメールも可能になり、市政モニターになりました。町内や市内外のまちづくり活動に居場所もできました。

4.ガイドヘルパーさんに導かれて
 私より辛い人の話をして、励ましてくれるヘルパーさんがいました。パソコンに取り組むのを誘発してくれたのもヘルパーさんでした。そして誘導歩行を始めて1年後の2010年9月、ヘルパーさんが、新潟市でのガイドヘルパー養成講座の先生が素晴らしかったと伝えてくれました。
 私は10月から1人で列車に乗り、駅員の誘導を利用して新潟へ行くことを始めました。新潟駅に到着すると、新潟の事業所からその先生がガイドにきてくれました。このときに疑問に思っていた誘導歩行のされ方を学び直しました。階段を上る姿勢を教えて頂きながら、生きる姿勢も蘇ったように思います。 
 翌月にパソコンをきちんと習いたいというと12月に亀田ふれあいプラザで学ぶ機会をセットしてくれました。これが県視障協や点字図書館を頻繁に利用するキッカケになりました。

5.ピアカウンセリングにおける感情の解放
 2011年9月に広沢里江子さんに会いたくて長野県上田市でのピアカウンセリング集中講座に参加しました。障害者自身がカウンセラーとなって、障害者に対して行うものをピア・カウンセリングと言います。ピア・カウンセリングでは、時間を対等に分けて、互いに役割を交換しながら聞きあい、相手に心を寄せて傾聴します。
 内容は精神的相談から自立生活のための学びまで深いそうですが、大切な目的に自己信頼の回復があり、そのために支えあいながら積極的に感情を解放します。これは抑圧してきた感情を解き放つことで、過去に受けた傷を癒し、回復する事により、より合理的な思考を取り戻すのに役立つとの位置づけでなされます。抑圧は例えば「世話になっているのだから」「障害者なのに我儘だ」と自分を押しこんでしまうことです。私も無意識に鎧をまとっていました。感情の解放は障害者だけで行うからこそ、ここなら話せる、ここなら安全だとの気持ちがありました。加えて私はメンバーにも恵まれたと感じています。弱い立場の初心者を受け止める気持ちを全員から感じました。だからできたのだと思います。感謝しています。

(追記:話したことのある受診時の言葉、福祉関係者の話、近所の人たち、NPO法人オアシスなどは省略しました。)

略歴

1950年 現在の居住地で生まれ、育ち、生活。原因不明の視神経萎縮。
2006年 運転断念、07年通院同伴、08年送迎通勤、09年6月ロービジョン外来受診。
    7月に休職、8月に視覚障害者2級、翌年5月1級、7月に定年退職。
2009年 点字図書館登録、NPO法人障害者自立支援センターオアシス会員。
2010年 任意団体上越市視覚障害者福祉協会会員。2011年に社会福祉法人新潟県視覚障害者福祉協会会員、同年に任意団体新潟県中途視覚障害者連絡会会員。
2012年 NPO法人まちづくり学校会員。2013年に任意団体リハ協会会員。
2014年 町内会法人化検討委員。2015年に新潟県中途視覚障害者連絡会 副会長。

過去の講演

過去、大島さんにお話して頂いた講演を記しました。
andonoburo.netに登録しています。参考まで

第201回(12‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  大島光芳
演題:「活力~どうやって生み出すかを考えてみませんか~」 
講師:大島光芳 (上越市)
日時:2012年11月14日(水)16:30~18:00
http://andonoburo.net/on/4578

後記

講演中の大島さんの静かで落ち着いた口調に、凄みを感じました。
本当に見えなくなって6年生と名乗って講演が始まりました。その後は、携帯電話、音声再生装置(プレクストーク)、DAISY図書、点字図書館、「光メロディセンサー」、パームソナーなどについて、実際のグッズなどを参加者に回覧しながら講演が続きました。
その後、パソコン・ガイドヘルパー・ピアカウンセリングについて詳細に紹介がありました。特にピアカウンセリングにおいて、抑圧してきた感情を解き放つ、自己信頼の回復等々、とても意義深い話をお聞きすることが出来ました。感動しました。
大島さんの、益々の活躍を祈念致します。

盲学校理療教育の現状と課題

報告:第242回(16-04)済生会新潟第二病院眼科勉強会 小西 明

済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わりに読んで頂けましたら幸いです。

演題:盲学校理療教育の現状と課題~歴史から学び展望する~
講師:小西 明(済生会新潟第二病院 医療福祉相談室)
日時:平成28年04月13日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/4655

講演要約

1.最近の街中で目に付く店看板
 都会はもとより、地方の新潟市内でも「りらく」「エステ」「てもみ」などの店看板が目立つようになった。新聞の折り込みにも「整体」「全身もみほぐし」などの文字が躍るチラシが見うけられる。エステティックは平成19年(2007)、リラクゼーションは平成25年(2013)に日本標準産業分類に登録された。海外からのインバウンド、企業のメンタルチェック義務化も後押しし、推定一兆円産業ともいわれるようになった。ストレスの多い現代社会で、人々の健康志向や癒しのニーズと合致したのだろう。エステ、リラクゼーション、整体などは、法令で位置付けられている三療(あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう)と違い、広告の制限がないため、消費者が欲しがるクリーンで健康的なイメージを植え付けている。
 また、柔道整復師の開設する「整骨院」「接骨院」から、はり、きゅうと柔道整復をあわせた「鍼灸整骨院」といった新たな開設が増えている。平成10年(1998)以後、鍼灸学校の新設抑制が自由化され、かつ教育課程が時間制から単位制に改訂された産物といえる。

1999年 → 2009年 → 2013年
鍼灸師養成施設数 27校 98校 101校
定員数(晴眼) 835人 6,009人 5,676人

2.視覚障害者と理療
 一方で、伝統ある三療を主とし、それらと関連した手技療法や物理療法、運動療法などを含む非薬物療法の総称を「理療」という。
 古代より視覚障害者の男性は、語り部として、あるいは宗教者、平家琵琶の弾奏者の担い手であったが、江戸時代に入り杉山和一の管鍼術をはじめとする理療の知識や技術を獲得していった。これ以後、幾多の変遷はあったが、理療は伝統的に視覚障害者の主な職業として位置付けられ、現在も中心的な役割を果たしている。視覚障害者により数百年にわたり同一職業が継承された事実については、かねてより賛否はあるが、社会で一定の評価がなされてきたことは特筆すべき事項であり、他国に例がない。現在では至極当然のこととされている視覚障害者の理療業であるが、今日までの過程は過酷を究め困難の連続であった。現在の理療業や教育を支えている様々な制度や慣行は、その時々の先人の並々ならぬ尽力奮闘の成果である。

3.明治維新後の視覚障害者
 明治に入ると、厳格な官位・職階制の下で組織されていたそれまでの当道座は、中央集権体制の確立を目指す新政府の方針と相容れない存在となり、 明治4年 (1871年)の太政官布告をもって解体される。これに伴って杉山和一創設の鍼治講習所も廃止されるとともに、座からの配当で暮らしを立てていた盲人の生活問題が浮上することになった。
 一方、安政5年 (1858年) 7月の長崎に端を発したコレラの大流行に際し、蘭方ないし蘭漢折衷で行われていた当時の医学は無力であった。この教訓から、医学教育を含む学制や近代的な医療制度の確立によって医師の資質を向上させようとする機運が明治政府内に高まった。明治政府は西洋医学を主体とした新制度を、明治7年(1874年)の医制発布により実施した。これにより、あん摩・鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることとなり、三療・東洋医学は排除された。

4.盲唖学校設立運動
 更に、明治18年(1885)には「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年(1911)「按摩術営業取締規則」明治45年(1912)「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになった。
 一例として新潟県では、職業自立を目指す視覚障害者への支援「手に職をつけて自立してほしい」との先達の熱い思いにより、明治40年7月17日、関係者の念願かない「私立新潟盲唖学校」が県知事より学校設置の認可がなされた。つづいて同年10月10日鍼灸冶組合の粉骨の努力と、多くの協力者を得てついに開校式・始業式が挙行された。

5.あはき法と盲学校理療科
1911年     「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」により試験合格か指定学校卒業後、免許鑑札の義務 
1923年     公立私立盲学校及聾唖学校令・規程交付
        「盲学校ノ修業年限ハ初等部六年、中等部四年ヲ常例トス
         盲学校ノ中等部ヲ分チテ普通科、音楽科及鍼按科トシ・・・」
1947年12月   業界、教育界、視覚障害者団体の業権擁護運動
1948年4月   小・中学校、盲・聾学校義務制
1948年5月   高等部別科(2年)、本科(3年)、第一部専攻科(2年)が設置
1973年4月   改正理療科課程の設置 普通科・本科保健理療科,専攻科理療科
1974年3月   高等部別科廃止
1975年3月   高等部第二部専攻科廃止
1990年4月   あはき法一部改正(国家試験制度の導入)
         本科保健理療科 専攻科理療科、専攻科保健理療科 課程開設
1992年2月   第1回 あはき国家試験 開催

6.視覚障害者の理療業
就業あはき師の推移 (2014 衛生行政報告より)

あマ指師 1960年61.6% → 2014年23.0%
はり師 1960年46.3% → 2014年13.1%
きゅう師 1960年43.0% → 2014年13.4%

就業視覚障害あはき師の割合及び数は、晴眼あはき師とは逆に年々減少している。背景として視覚障害あはき師を養成する全国盲学校、国立リハビリテーションなどで在籍者の減少がある。あはき師免許取得後の進路においては、平成15年度と比較して盲学校普通科卒業生の内、盲学校上級課程進学者(専攻科課程)は82人であり、平成25年度はそれからほぼ半減している。専攻科理療科は、平15年度卒業生は304人であり、平成25年度と比較して 20%減少している。就職が143人で、64.3%を占めている。企業内ヘルスキーパーや訪問マッサージの会社に就労している。
また、開業は37人で12.2%であったものが、平成25年度は率にして半減している。

7.視覚障害者団体の動向(日本盲人会連合の提案)
(1)あはき法18条の2廃止
ア あはきの社会的信頼を高め、資質向上を図る。
イ 中卒失明者は激減している。例外措置として高卒並みの学力として認め、専攻科に入学させる。
ウ 理療科教員の身分保障を検討する。
(2) あはき法19条死守と視覚障害あマ指師に対する支援
ア 全国の専門学校であマ指師養成課程新増設が続発している。
イ 19条をいつまで保てるか。関係者のコンセンサスは得られるか。
ウ 視覚障害者あマ指師が職業自立するための支援策を実現する。

8.検討事項
・盲学校生徒、保護者、業界を交えた地域での、18条の2、19条に係る検討。
・視覚障害あマ指師が職業自立するための支援策を現行法で実現するための検討。
・理療を含めた視覚障害者の職域拡大と社会で活躍する人材育成。ビジュアル社会の少数派への理解。幼児・児童(低発生頻度障害0.01%)~成人まで。

◎盲学校の存在意義は、視覚障害者一人一人の夢を実現するためにある。理療を目指す視覚障害者は少なくはなったがゼロではない。理療を盲学校に導入した時代と現在では隔世の感はあるが「視覚障害者の職業自立」は、時々の先人の刻苦奮闘、愛情の賜物により今があることを確認したい。

略歴

1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
2015年 済生会新潟第二病院医療福祉相談室勤務

後記

これまで聞いたことのない理療科の歴史と現状でした。
・あはき19条、初めて知りました。
・晴眼者がマッサージをやりがいのある職業として意欲的に取り組んでいる一方で、視覚障碍者が止む無くあはきを選択しているという一面も知りました。
・晴眼者は、国家資格でないため宣伝ができること、一方あはきは国家資格であるため宣伝ができないこと
・視覚に不自由のある人の職業として「あはき」(あんまマッサージ指圧・鍼・灸)のみでなくIT関係も期待できると思っておりましたが、最近は視覚情報化(ビジュアリゼーション)のためこの分野への進出が厳しいという現実も知りました。
 実際には各団体のロビー外交などが影響しているのでしょうが、何か理不尽さを感じながら拝聴しておりました。
 視覚障害者の就労問題は、大きな課題です。まだまだ勉強しなければならないことが多いことを改めて知りました。

過去の講演

@過去、小西先生にお話して頂いた講演を列記致しました。
andonoburo.netに登録してございます。参考まで

第226回(14‐12)済生会新潟第二病院眼科勉強会
演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~
講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
日時:平成26年12月10日(水)16:30~18:00
http://andonoburo.net/on/3381

第207回(13‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「インクルーシブ教育システム構築と視覚障害教育~盲学校に求められるもの~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校:校長)
日時:平成25年5月8日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/1946

第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3324

第130回(07‐1月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
日時:平成19年1月10日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3488

第69回(2002‐2月) 済生会新潟第二病院 勉強会
演題:「縦断資料からみた視覚障害児の運動発達」
講師:小西 明(新潟県立教育センター)
日時: 平成14年2月13日(水)16:00~17:30
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演抄録】
視覚的なハンディキャップが、視覚障害児の体力や運動発達のどのような側面に影響を及ぼすかを調べ、指導上の基礎資料を得るために、新潟盲学校に保存されているスポーツテストの縦断資料を検討した。その結果、男子生徒の形態の発育水準は普通児と変わらないが、全身運動の発達は低水準にあることが分かった。

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