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人生いろいろ、コーチングもいろいろ 高次脳機能障害と向き合うこと、ピアノを教えること

報告:第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 立神粧子

日時:平成27年8月5日(水)16:30~18:00
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
http://andonoburo.net/on/3962

講演要約

1.高次脳機能障害とは

 高次脳機能障害は脳外傷、脳卒中、脳腫瘍などを原因とする器質性の後遺障害である。とくに前頭葉の認知機能の働きに問題が生じる。認知機能とは、①覚醒と周囲への意識と心的エネルギー、②感情をコントロールする抑制と発動性、③注意と集中、④情報処理、⑤記憶、⑥遂行機能と論理的思考力、などの諸機能のこと。これらを下から順番に階層にして示しているのが「神経心理ピラミッド」の図表である。ピラミッドには最下層に“リハビリに取り組む意欲”が置かれ、最上層には“受容”と“自己構築”が置かれている。ピラミッド型が示すように下位の機能が働いていないと上位の機能はうまく機能しない。と同時に、諸機能は連動し相互に作用する。

 脳損傷の特殊性として、脳細胞の欠損は身体の他の臓器と異なり再生しないことが挙げられる。しかも脳の機能はその人固有の人生の学習の記憶によって成り立っている。人それぞれ歩んできた人生が違うので、AさんとBさんとは神経回路のつながり方は全く異なる。本人に障害が残った自覚がない場合や、家族が症状の本質を理解しないために的確な支援ができない場合もある。そのため、症状自体に加え治療の目標も個々で異なり、リハビリは困難を極める。

2.Rusk研究所における脳損傷通院プログラムとは

 夫は2001年の秋に重篤な解離性椎骨動脈破裂によるくも膜下出血を発症し、脳損傷(高次脳機能障害)が残存した。2004〜05の1年間、夫と筆者はNew York大学医療センター・リハビリテーション医学Rusk研究所の「脳損傷通院プログラム」で機能回復訓練を受けた。Ruskの通院プログラムは神経心理学を学問的基盤としたホリスティックなアプローチで、対人コミュニケーションを中心とした療法的プログラムである。20週を1サイクルとする訓練は個々のゴールにあわせて周到に計画され、理論と実践が巧みに組み合わされ構造化されている。訓練生は規則的な訓練の中で、症状の本質の理解と補填戦略を繰り返し学ぶことになる。

 Rusk研究所での夫の訓練が終わるとき、Ben-Yishay博士から「君たちが訓練に成功したのは、君たちが成熟した音楽家で、訓練ということの意味を理解していたからだ」と言われた。このことについて考えてみたい。

3.ピアノを教えるとは

 ピアノを教えるとき、専門家を育てるだけでなく、初心者、子供の情操教育、大人の趣味など、対象者は多岐にわたる。脳損傷が個々のケースで全く異なるように、年齢、習熟度、目的が一人一人異なる。ピアノを教えるということは、Ruskでの訓練と同じように、①多様なゴールを理解する、②個人の特性に合わせて(=相手の脳と心になり)指導する、③その都度ゴールを定めて、技術と考え方の両面からゴールの達成に向け訓練する、④教え込むのではなく自分でできるように導く、⑤ほめて育てる+厳しく指摘する、などを意味する。

 良いピアノの指導者(=コーチ)は、①この上なく音楽を愛する、②情報交換を怠らずよく勉強する、③相手を知ろうとする、④レッスンの目的・方法論を明確にもつ、⑤渾身のレッスンをする、などの資質を持つことが望ましい。指導者は改善すべきところを見つけ、理論的かつ実践的に技術と方法を示す。生徒の側も、主体的にその道の専門家のアドバイスに耳と心を傾け、順応性をもって素直に訓練を受ける態勢になることが大切である。指導の目的は生徒が「自分で自分を改善させる」ことができるようにすること。つまり、自分の音を批評できる能力、悪いところを自分で気づき予防できる能力、様々なテクニック(戦略)を知り自分で使いこなす能力などを、訓練によって身につけさせることである。これらはそのまま高次脳機能障害のコーチングの技術に当てはまる。

4.高次脳機能障害のコーチング

 脳損傷者のコーチングには重要な前提条件がある。第一に、訓練生が落ち着いていて客観的な時にのみコーチングする。イライラしていると抑制困難症を引き起こし、コーチングが逆効果となる。第二に、訓練生が疲れすぎていない時にコーチする。神経疲労を起こしていると、コーチングを受け取る集中力も情報処理力も十分に働かない。第三に、コーチされる側も活発にコーチングを求める意欲を持つ。本人に改善する意志がないと意味がない。

 そして脳損傷のコーチングの原理としては、①ひとつの問題に焦点を当て,選択的であること、②問題は具体的に指摘し、慎重に戦略を選び、具体的に解決策を示す、③良いことも具体的に指摘する、④改善すべきことを良いことの指摘に挟む「サンドイッチ効果」の技法を使ってコーチする、⑤ユーモアを忘れないように、などである。

5.受信情報を確認しながら会話しよう

 例えば、会話の訓練がある。隣の人と会話をしてみよう。その際に、受信情報を確認する〈確認の技〉や、相手の言葉を借りる〈語幹どりの技〉などを使ってみると、発動性のない人も、抑制困難な人も、それぞれの問題にとって助けになる戦略を用いて会話を進める事ができる。戦略を使うことで発動性のない人には発話のきっかけとなり、抑制困難症の人には話の筋道からそれないようにすることができる。

 会話の訓練以外にも、何か動作を覚える時の確認の手順や、日常生活を構造化することで動きの流れを作っていくことなど、症状に合わせてそれぞれの戦略を用いて一歩先のゴールを設定して地道に訓練することで、日常生活をよりスムーズにする事ができる。障害の完治は期待できないが、訓練により戦略を用いる技術を習慣化する事はできる。

6.コーチングの意義

 脳損傷者がこうした技術を身につける事ができれば、家族や周囲の人たちとの共同生活の中でも、自分の存在に価値がある事を自ら感じる事ができる。コーチングの技術、コーチを求める順応性のある心と意欲が双方に求められる。ケアマネージャーやヘルパーさんたちとの連携も必要である。最終的には、自分で自分を改善できる力を持ち、相手との良い関係を再構築できるようにしたい。コーチする人もコーチされる人も、その時の問題にひとつずつ取り組み、落ち着いて訓練してつねに改善することが肝要である。

 音楽の訓練を通じて「訓練」や「技術の獲得」ということの本質を理解していた我々だったので、Ben-Yishay博士は「訓練は成功した」と言及したのだろう。それほど、脳損傷者にとって自分の症状を理解し、それに対する戦略の習得から習慣化に至る地道な繰り返しの訓練が必要、ということである。

略 歴

1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
1984年 国際ロータリー財団奨学生として渡米
1988年 シカゴ大学大学院修了(芸術学修士号)
1991年 南カリフォルニア大学大学院修了(音楽芸術学博士号)
2004-05年 NY大学医療センターRusk研究所 脳損傷者の通院プログラム参加
    治療体験記を『総合リハビリテーション』(医学書院)に連載(2006年)
2010年 『前頭葉機能不全その先の戦略』(医学書院)
現在:フェリス女学院大学音楽学部音楽芸術学科教授、音楽学部長、日本ピアノ教育連盟評議員、米国Pi Kappa Lambda会員。

著 書

『前頭葉機能不全/その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』
立神粧子著 (2010年11月 医学書院)
医学書院のHPに以下のように紹介されている。
「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912

後 記

 素晴らしい講演でした。ご夫婦で東京芸大出身の音楽家。立神先生はピアノ、ご主人はトランペット。ヤマハ楽器にお勤めだったご主人が「くも膜下出血」を発症。その克服にご夫婦で立ち向かい、ニューヨークで約一年の研修を受け、その後も地道な訓練をひたすらに続け、生活を取り戻した(今でも進行形)壮絶なお話。訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。後半ではご主人のユーモア溢れる講演もお聞きした。

 こうした経験から立神先生は、神経心理ピラミッドに則った訓練は、脳損傷リハビリにもピアノ教育にも有効なツールとなっていることに気が付いたという。すべてのリハビリあるいは習い事のいいお手本となるお話を、感動と共に拝聴しました。

 立神先生ご夫婦の健やかなお暮しを祈念致します。この度は、誠にありがとうございました。

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