視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―
報告:第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 岸 博実
報告:第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 岸 博実
演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長:注1)
日時:平成27年03月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3508
講演要約
Ⅰ 琵琶法師・按摩師~「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で
古来日本の盲人は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作し、琵琶法師や按摩師などの業を獲得して来ました。江戸時代、当道座(注2)が自治権を認められ、幕府に重用される盲人も現れました。1682年(天和2)、盲人に鍼を教える学校「杉山流鍼治導引稽古所」(注3)も開設しました。バランタン・アユイが、世界最初の盲学校であるパリ青年訓盲院を設立した1784年よりも100年以上早かったのです。
Ⅱ 明治政府の施策
明治政府は長年続いた当道座を廃止します。状況を打開する第一着手は教育でした。1878年(明治11)京都盲唖院発足、2年後、東京楽善会訓盲院も授業開始。京都の古河太四郎は「自己食力」を構想し、楽善会はその基調に自助論を据えていました。いずれも古い徒弟教育を否定し、普通教育の上に職業教育を築きました。中村正直(注4)の「天は自ら助くる者を助く」論は自我形成と生存競争、二つの課題を盲人に課しました。
Ⅲ 初期の日本盲教育
京都も東京も、点字がない現実から始まりました。木に刻んだ文字、紙を用いた凸字、紙にカナカナをプレスしたイソップ物語、鍼理論を漢字・仮名交じりに成形した凸文字教科書などが作られました。墨字の書き方の練習もしました。しかし、明治10年代の盲生にとって学習は著しく困難でした。退学が相次ぎました。
Ⅳ 点字の登場
事態を根本から変えていくのが点字です。人類の文字は凹字から始まりましたが、紙の発明によって平らな字に変わり盲人が読み書きし難くなりました。盲字用凸字から12点点字に飛躍し、ルイ・ブライユが6点方式に改革したことを通じて、世界の盲人にとって自由に読み書きできる文字が獲得されました(注5)。私は、アーミテージの「盲人に対する最善なるものの唯一の審判者は盲人」という提言も重要であったと考えています。
わが国では、英国の盲人アーミテージによる『盲人の教育と職業』という書籍がそれを持ち帰った手島精一から小西信八東京盲唖学校長の手に渡り、石川倉次の点字研究が始まります。その出発点で、高田出身の小林新吉少年がアルファベット点字の読み書きを円滑に行ったことが決定的な駆動力となりました。
Ⅴ 小西信八の功績
明治期後半からの盲教育においては、東京盲唖学校長・小西信八の認識がもたらした影響が重要です。彼は1896年(明治29)から1898年(明治31)にかけて、欧米の障害児教育を視察しました。国家による教育を受ける権利が、盲児、聾唖児にもある(「天賦人権論」に立った認識であったかどうかは吟味を要しますが)と、はっきり主張しました。
1906年(明治39)聾唖教育全国大会 3校長(小西信八・古河太四郎・鳥居嘉三郎)の「文部大臣建言」『上申書』・・・盲ト聾トハ全ク性情ヲ異ニシ盲者ノ為ニ考慮ヲ尽シタル成案モ之ヲ聾者ニ適用スベカラズ聾者ノ為ニ工夫ヲ凝ラシタル良案モ之ヲ盲者ニ利用ス可カラズ・・・・
Ⅵ 盲・聾 教育の義務化と分離
明治から戦時中にかけて続けられた帝国盲教育会などによる運動の結果、盲・聾教育の義務化と分離は、1947年(昭和22)教育基本法、学校教育法によって果たされました。最後に盲・唖分離が行われたのは石川県で、それは1965年(昭和40)でした。特別支援教育制度の下、今後の視覚障害教育はどのような方向に向かうのか、気にかかっています。
Ⅶ 日本盲人会
1906年(明治39)には日本盲人会も結成されました。東京と京都の教員とその教え子たちが呼びかけ人に名を連ねました。メンバーの一人、左近允孝之進は点字新聞「あけぼの」を創刊し、『盲人点字独習書』という書物も発行しています。文部省が『日本訓盲点字説明』を出すより6年も早く当事者である左近允がこの仕事をしたのです。
Ⅷ 同窓会
それらに先立って、同窓会作りが1902・3年(明治35、6)に東京でも京都でも始まり、全国の盲唖学校へと広がって行きます。自らの団体を結成して歴史を一歩前に進めようという動きの基盤になったことは間違いないと考えられます。京都府立盲学校の同窓会は、昭和の初めに国産第1号として点字タイプライターを製造・販売しました。点字盤も「京盲同製」と彫り込んで販売しました。状況に対応して生きるだけでなく、状況を変える主体者として、当事者集団が立ち現れてきたことの意義は大きかったと思われます。木下和三郎の盲人歩行論にももっと注目すべきでしょう。
自己実現を求め続ける「主体」が形成・確立されてきた過程を掘り起し、公助の範囲を縮小していくかのような今日の流れを超える力はどこから生まれてくるのかを考察したいと思っております。
==========================
注1)「日本盲教育史研究会」
2012年10月13日発足。全国各地方・学校などに埋もれている史料の発掘、保存、活用を追求し、調査・研究の成果を交流・共有。日本の明治期以降の歴史を研究することにより、今後の盲教育の方向を示唆することを企図して有志により作られた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日本盲教育史研究会公式サイト」
注2)「当道座」
江戸時代に幕府から承認された視覚障害者の組織(西洋諸国のギルドにあたる)。自治権が与えられ、検校・別当、勾当、座頭の位があり、さらに細かく全部で73階級に分かれていた。当時3000人くらいがこの組織に属していた。
注3)「杉山流鍼治導引稽古所」
小川町邸の後、本所一つ目弁財天社内に開設(江戸時代後期より本社二の鳥居の手前、南側に四間余り五間の教育施設)。 この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した。現在江島杉山神社(東京都墨田区)。1682年(天和2)9月18日、家塾を改め杉山流鍼治導引稽古所を設立。アユイによる視覚障害者教育(パリ・1784年)より100年以上前のこと、世界の教育史上特筆すべき初の盲人教育である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「杉山流鍼治講習所」
注4)「中村正直」 1832年〈天保3年〉- 1891年〈明治24 年〉
西国立志編(自助論)~1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなる。自助論の序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「中村正直 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館」
「中村正直 - Wikipedia - ウィキペディア」
注5)「ルイ・ブライユ Louis Braille」 1809年~1852年
アルファベット6点式点字の開発者
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ルイ・ブライユ - Wikipedia - ウィキペディア」
==========================
追補
1.小西信八(こにし のぶはち)1854年(嘉永7)―1938年(昭和13)
長岡藩医小西善硯の次男として越後国古志郡高山村(現・長岡市高島町)に生まれ、1876年(明治9)東京師範学校中学師範科に入学し、1877年(明治10)、東京高等師範学校教諭(付属幼稚園主任を兼務)、1878年(明治11)には文部省四等属に任ぜられて訓盲啞院掛事務となります。そして1879年(明治12)に東京盲啞学校教諭兼幹事となり、さらに1882年(明治15)の同校校長心得を経て、1885年(明治18)に39歳で同校校長となっています。そして、1902年(明治35)に東京盲啞学校が東京盲学校と東京聾啞学校に分離した際、後者の校長として1925年(大正14)まで務めました。
盲唖学校・聾唖学校校長、初期聾唖教育・盲教育の充実に努め、欧米歴訪で国家の教育を受ける「権利」・義務制の主張を明確化する。石川倉次と共に6点点字の開発。盲・唖分離論を唱えました。明治・大正という、障害者教育の黎明期に大きな足跡を残しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「点字教育と新潟 - 博物館学を読む - Yahoo!ブログ」
2.大森隆碩(おおもり りゅうせき)1846 年(弘化3)―1903 年(明治36)
「医学と英語の英才」
1846 年(弘化3)高田藩医の長男として誕生。15 歳からは江戸で眼科の勉強をし、1864 年(元治1)に高田で眼科医を開業します。そしてさらなる医学の上達を志し、英語を学ぶため大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学します。ヘボン式ローマ字で知られる医師ヘボンにも師事し、ヘボンの和英辞典編さんを手伝うまでに英語が上達しました。
「訓盲談話会」の設立
再び高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験したことから、目の不自由な人たちの教育について考えるようになります。1886年(明治19)には医師や視覚障害者たちとともに「訓盲談話会」を設立し、幹事長に就任。翌年には早くも高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めることになりました。この光樹寺の学校が、のちに高田盲学校へと発展していくのです。この間、隆碩は「医事会」「高田衛生会」などの医療団体の設立にも尽力しています。
「高田盲学校」
1891 年(明治24)、隆碩は再三の申請の末ようやく県から認可を受けて、私立高田訓矇(くんもう)学校を設立し、校長に就任します。日本で三番目の盲学校の誕生です。隆碩はその私財の多くを訓矇学校の運営費に充てていました。またこの頃、隆碩は中頸城郡立産婆養成所の設立にも貢献し、その所長も務めています。1903 年(明治36)、療養中だった東京で亡くなりました。享年57 歳
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日本3番目の盲学校を開校 大森隆碩」
「開学の精神」後世に
「高田盲学校の設立に尽力した眼科医・大森隆碩」
3.大森ミツ(高岡清次と結婚し、高岡光子)
大森隆碩の次女 東京盲唖学校訓導。1904年(明治37)国定教科書「地理書」に挿入する『内国地図』を亜鉛版に打ち出し発行(初の触地図)。翌 1905年(明治38)8月には『外国地図』を発行。1914年(大正3)には辞書『言海』の点字訳を成し遂げました。夫・高岡清次は東京帝大を卒業後に中途失明した法学徒であり、光子はその学問をも支えました。なお、1909(明治42)年2月国に対して「点字公認ニ関スル請願」が提出され、あと一歩で採択されるところまで進展しましたが、内閣法制局の「点字は文字にあらず」という判断によって葬り去られました。この請願に高岡清次も加わっています。
4.市川信夫 1933年(昭和8)-2014年(平成26)
新潟県上越市出身。高田瞽女の文化を保存・発信する会代表。児童文学者。新潟大学教育学部に学び、各地の小学校に勤めた後、盲学校・養護学校などで障害児教育に当たりました。高田瞽女研究の第一人者と言われた父、市川信次の指導で瞽女研究をはじめました。退職後は知的障害者通所作業所所長、上越市文化財審議委員などを歴任。坪田譲治氏に師事して学んだ児童文学の分野では、代表作に「雪と雲の歌」や映画化された『ふみ子の海』(理論社)があります。その映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「児童文学者・高田瞽女研究家、市川信夫さん死去 功績たたえ、急逝を悼む」
「瞽女文化」
「ふみ子の海」
5.高田訓矇学校は「日本最初の盲学校」
(点字毎日連載『歴史の手ざわり・もっと!第10回』より)
明治10年代、東西二校の他に、大阪や石川などで盲啞教育が試みられました。しかし、条件が熟していなかったため、いずれも挫折してしまいました。従って、1891年(明治24)創立の高田盲学校が「3番目の盲学校」と言い習わされてきました。現在(執筆・掲載時点)は、県立上越養護学校内に同新潟盲学校高田分校となっています。
高田盲学校の歴史は幾つかの際立った特色を持ちます。まず、2006年(平成18)まで、一度も「盲唖学校」に変容することなく、徹頭徹尾「盲学校」として存在し続けた点です。京都も東京も、「盲唖」校であった時期に、高田は視覚障害に特化した学校づくりを初心としました。地元には、聾唖生の受け入れを望む動きもありましたが、それをあえて退けました。この経緯をふまえると、高田は「3番目」でなく、「日本で最初の盲学校」と称えるのが相応しいとさえ言えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「点字毎日 2011年10月27日 歴史の手ざわり・もっと」 岸博実
これらの方々の足跡・業績をいっそう体系的に掘り起し、顕彰していきたいと念じます。高田盲学校の史料、市川信夫氏の仕事をどう継いでいくか、関係者のご尽力に期待しています。
PS:ささやかなお土産として、「高田盲学校30周年記念」(点字)を墨字に起こして持参いたしました。
略歴
1972年(昭和47年) 広島大学教育学部卒業
1974年(昭和49年)~ 京都府立盲学校教諭
2011年(平成23年)~ 点字毎日・点字ジャーナルに盲教育史連載
2012年(平成24年)~ 日本盲教育史研究会事務局長
2013年(平成25年)~ 滋賀大学教育学部非常勤講師
6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演を担当
2014年(平成26年)7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で教育講座を担当
後記
とにかく視覚障害者への教育の歴史に対する岸先生の真摯さ優しさを感じる講演でした。一つ一つは知っている積りでしたが、歴史の流れの中で語られた視覚障害者(児)の教育の話は新鮮でした。衝撃でした。最初に述べられた、琵琶法師・按摩師は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作した人たちという認識も新鮮でした。わが国には、古くから視覚障害者に対する施策や教育があったこと、明治を機に大きく制度改革が行われたこと、視覚障害者のために点字の開発が大きかったこと、盲・聾教育の義務化と分離に長い年月を要したこと(最近は逆に統合が進められている)。自己実現を求め続ける『主体』が形成・確立されてきた過程を知るにつれ、公助の範囲を縮小するかのような今日の流れに危惧を覚えます。
新潟の先達の働きも再認識しました。同時に、貴重な資料の保存も気になりました。あいにくの天候の中、京都から新潟(そして上越・高田)までお出で頂いたことに感謝します。
岸博実先生の、今後益々のご活躍を祈念致します。