演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~
講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
日時:平成26年12月10日(水)16:30~18:00
http://andonoburo.net/on/3381
Ⅰ 最近の障害児者をめぐる法整備
平成26年(2014)2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効しました。我が国において障害者等が積極的に社会参加できることや、相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型社会の形成への取り組みが、今後一層進展するものと期待されています。教育においては、こうした共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための様々な施策が推進されています。
このことは平成18年(2006)国連総会において「障害者の権利に関する条約」が採択されたことにはじまります。我が国は、平成19年(2007)9月に同条約に署名し、6年半後に発効にこぎ着けました。
この間、下記のとおり批准に向けて必要な国内法の整備が進められ、障害児者に関わる法制度改革がなされてきました。今後も整備の充実や一層の改善が求められています。
平成23年(2011) 8月 障害者基本法の改正
平成24年(2012)10月 障害者虐待防止法
平成25年(2013) 4月 障害者総合支援法
平成25年(2013) 4月 障害者雇用促進法の改正
平成25年(2013) 4月 障害者優先調達推進法
平成25年(2013) 6月 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律
平成25年(2013) 9月 学校教育法施行令の一部改正
Ⅱ トータルサポートセンター
障害児者に関する教育や福祉等に係る法整備は、この四半世紀に大きく前進しました。遡って盲聾学校の義務制が布かれた戦後間もなくの頃は、まだまだ未整備であっ
たことは周知のことです。今から140年ほど前、明治11年(1878)日本ではじめての盲学校、京都盲唖院の開校から現行法制度に至までの過程で、全国盲学校は教育に留まらず、視覚障害者にとってトータルサポートセンターとしての役割を担ってきました。例えば、三療や音曲などの職業教育、公立点字図書館設置運動、三療以外の職業開拓、視覚障害者のスポーツ振興など、ニーズに応じ積極的に支えてきた歴史があります。法整備が整うまでの長い間、盲学校は教育のみならず福祉・労働・文化・スポーツなど、様々な分野で先導的な役割を果たし、時代の先駆けを担ってきたのです。
Ⅲ 視覚障害者を支えた組織
1.御大典記念新潟県立新潟盲学校奨学会
盲聾学校の義務制が、昭和23年(1948)4月より小学部1年生から学年進行ではじまりました。制度は整ったのですが、実際には家庭の経済的な問題、いわゆる貧困により、盲学校や聾学校に就学したくてもできない未就学が大きな課題でした。そこで、昭和26年6月に「盲学校、聾学校、養護学校への就学奨励に関する法律」が施行されました。教科書などの教材費、給食費、舎食費など就学に関わる費用の一部が国庫や県費から支出されるようになりました。これより以前、このような公的支援がない時代、昭和3年(1928)8月当校では独自の奨学金制度を立ち上げていました。それが御大典(ごたいてん)奨学会です。昭和天皇の皇位継承を記念して、篤志家から寄付を募りこれを基本金として、その利子を貸し与えるというものでした。当校には、奨学会設立趣旨書や定款が残されています。
2.新潟県盲人協会
現在の社会福祉法人「新潟県視覚障害者福祉協会」の前身である、「新潟県盲人協会」は、大正9年(1920)6月19日に、刈羽郡柏崎町の中越盲唖学校で開催された県下盲唖学校出身者による連合有志会で設立されています。設立時の会長は、新潟盲唖学校教員の高橋幸三郎、副会長は、中越盲唖学校教員の姉崎惣十郎の2人、理事8人の体制でした。事務所を、西堀通3番町にあった新潟盲唖学校内に置き、昭和5年(1930)に新潟盲学校が関屋金鉢山に移転すると、そこに移動しています。会長が新潟盲学校教員であり、事務局を所属学校としていたので、実質は盲学校で運営していたといえます。事業として、設立当初から、点字雑誌を年4回発行。当時貴重だった点字図書を県内5カ所で巡回文庫として設置(大正15年より点字図書館に統合)。出張講演会の開催。点字の普及や三療など職業に関する座談会の開催など多岐にわたっています。戦中、戦後の混乱期を経て昭和25年4月、県立第7代校長塚本文雄先生が、初代新潟県盲人福祉協会長として就任されました。会員の福利厚生を図り、視覚障害者相互の共励と親睦、研修に敏腕を発揮されました。
3.新潟盲学校同窓会
当校同窓会は、開校5年後の明治45年(1912)3月23日の第1回卒業式で4名の卒業生を
送り出した日から始まります。同窓生が少なかったことから発足から、昭和2年
(1927)までの15年間は、在校生も含めた組織でした。事務局は母校内とし、母校教員
が事務処理を担当しました。この体制は同窓会設立から102年を経過した現在も変わりません。
昭和10年(1935)からは、同窓会長を校長が兼務することとなり、県立第5代校長樋口嘉雄先生が就任されました。学校は同窓会を支え、あるいは一体となって、同窓生の福利厚生や就労の支援をしていたのです。点字機関誌「舟江の六光」の発行や総会の開催から懇親会、あるいは被災同窓生の募金まで手がけました。また、日常生活に欠かせない白杖、点字盤、点字紙、ゲーム用品、糸通し、醤油差し等々を当校購買部が同窓生に小分けしていました。現在のように宅配便やネット販売など無かった時代ですから、当校が視覚障害者用具の卸や販売部の役割をしていました。
Ⅳ 就 労
1.明治維新以後の視覚障害者
明治4年、それまでの当道座が廃止され、同7年の医制発布により、鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることになりました。更には、明治18年の「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには、試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになりました。江戸時代までの視覚障害者は、当道座により男性は琵琶、琴、三味線等の音楽、鍼灸、あん摩、貸金業等、女性は瞽女等なんらかの仕事に就くことが可能でしたが、それができなくなりました。
2.盲学校(視覚障害教育)のはじまりは職業教育
①<鍼灸、あん摩> 明治18年10月、新潟の鍼按業関口寿昌(としまさ)は、盲人教育と鍼灸師養成は、それまでの徒弟制度ではなく、学校教育によらなければならないとして「盲人教育会」を設立しています。関口の死後、盲人教育会は消滅してしまいましたが、これが当校の前身、新潟盲唖学校設置の母体といえるようです。
一方、上越では中頚城郡高田町(上越市)に、明治19年(1886)訓盲談話会が組織され、同21年には、「盲人矯風研技会」に改名し、盲児に鍼按、琴などの指導を始めています。このように、学校設置により教育を行い、手に職(鍼灸・あん摩)をつけさせ、視覚障害者の生活を安定させたいというのが関係者の切なる願いでした。
②<音楽> 音楽は、盲学校の職業教育として鍼按とともに早くから取り上げられ重視されてきました。音楽科教育のはじまりは、楽善会訓盲院で明治14年、箏曲をはじめとする邦楽を教授したのが始まりです。次いで、洋楽の指導も始まりました。音楽科の設置は、全国十校ほどありましたが、昭和三十年代、四十年代に閉科し現在では2校となっています。
③<理学療法> 昭和三十年代半ば頃から、障害者に対する医学的リハビリテーションの推進策が政府をはじめ重要課題として取り上げられるようになりました。そこで、理学療法士、作業療法士の養成することが急務となりました。昭和39年(1964)4月に、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校と大阪府立盲学校の二校に理学療法士養成課程が設置され、後に徳島県立盲学校にも設置されました。卒業生は国家資格を取得後、病院やリハビリテーション施設で活躍しています。
④<情報処理> 1990年代からIT機器の飛躍的な進展により、視覚障害者が使いこなせる情報機器やソフトの開発が活発になりました。これを受け平成3年(1991)4月筑波技術短期大学(現:筑波技術大学)に情報処理に関する学科が開設されるとまもなく、平成5年(1993)4月大阪府立盲学校高等部専攻科に情報処理科が設置されました。IT機器が各盲学校に導入され、自立活動の時間を中心に積極的に活用されるようになりました。この頃から情報処理技術の活用により、視覚障害者が一般企業へ就労するようになりました。
⑤<その他> 昭和36年度から、当時の文部省では視覚障害者にふさわしい新職業の開拓が始まりました。盲学校及び聾学校の特殊教育職業開拓費として、十学級(一学級十名)六百万円が計上され、盲学校では5校にそれぞれ一学級の新職業科が設置されました。北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科―椎茸)、岩手県立盲学校(養鶏科)、神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科)、大阪府立盲学校(ピアノ調律科)、徳島県立盲学校(養鶏養豚科)、これらの新職業科の中で、ピアノ調律科以外は短期間で閉鎖され、ピアノ調律科も、後に山形県立山形盲学校にも設置されましたが、大阪府立盲学校ともに、平成に
入る頃までに閉鎖されました。
3.三療(あはき)業団体と盲学校
三療業者は、視覚障害者、晴眼者を問わず三療に就業している人々が団体を組織し種々の活動しています。代表的な団体は、いずれも公益社団法人である「全日本鍼灸マッサージ師会」「日本鍼灸師会」「日本あん摩マッサージ指圧師会」です。これら三団体の設立や運営に、盲学校理療科教員が深く関わっていた経緯があります。戦後の盲学校理療科教員は生徒の学習指導とともに、卒業後に三療で自立した職業人として仕事が進められるように、法整備から社会への理解啓発まで、多彩な活動を展開しました。現在では、各団体組織が独自に法人運営を行い、教職員が関与することはありません。
4.三療研修と盲学校
三療の組織的な研修は盲学校がはじまりです。現在では使用されていませんが、当校は長い間、卒業生の三療研修の場、実習室等が研修会場でした。歴史を紐解くと、休日に「鍼研究会」とか「スポーツマッサージ研修」 「卒後研修」等が学校開放され開催されていたようです。講師は盲学校理療科教員が担っていました。盲人協会と同様に、盲学校が職業教育(三療)の先頭に立って牽引していたのです。
5,福祉作業所と盲学校
平成25年4月1日から「障害者自立支援法」が「障害者総合支援法」へと移行されるとともに、障害者の定義に難病等が追加され、平成26年4月1日から重度訪問介護の対象者の拡大、ケアホームのグループホームへの一元化などが実施されました。福祉サービスは、通所サービス(就労継続支援A・B型、生活介護等)居住サービス(グループホーム等)に再編整備されました。
振り返って、昭和40~50年代(1970~80)は障害児者の福祉や労働に係る法制度が未整備な段階でした。当時、全国の盲学校では高等部重複障害生徒の進路先が一部の施設に限られ、卒業後の在家解消が大きな課題でした。当時は作業所等の福祉施設が少なく、視覚障害者が入所できる機会に恵まれないケースが多かったのです。そこで、盲学校の保護者・教職員・卒業生が施設建設に立ち上がったのです。地元、新潟市江南区の「のぎくの家」をはじめ、現在では社会福祉法人として大組織となった福井県鯖江市の「光道園」や同千葉県四街道市の「ルミエール」など、当初は盲学校関係者の小さな力の集まりでしたが、次第に地域の理解・支援を得て、現在では安定した施設運営がなされています。
Ⅴ 文化・スポーツ
<文化>
1 点字図書館
現在の新潟県点字図書館(ふれあいプラザ内)のはじまりは、中越盲唖学校教員であった姉崎氏によるところが大きく、研究者によれば、わが国最初の点字図書館の可能性が高いといわれています。その後、当校内に設置されたり、県立移管後は当校校長が館長を兼務したりするなど盲学校とともに歩んできた歴史があります。
大正 9年12月 中越盲唖学校教員(現:柏崎市)の姉崎惣十郎氏が自宅で「姉崎文庫」を開設する。
大正14年10月 「姉崎文庫」新潟県盲人協会に引き継がれる
昭和20年 4月 点字図書館が新潟県立新潟盲学校盲学校内に移転される
昭和33年 4月 任意団体盲人福祉協会立の点字図書館が新潟県に委譲され
同時に、新潟県立新潟盲学校(新潟市金鉢山)隣接地に移転し、塚本校長が点字図書館長を兼務する
昭和44年 4月 点字図書館が新潟市川岸町一丁目に新設・移転される
平成 9年 3月 点字図書館、新潟ふれ愛プラザ(亀田町向陽)内に移転
~ 以下略 ~
2 点字にいがた
点字にいがたは、新潟県施策の広報を目的に、昭和44年(1969)第1号が発行されて以後、本年夏号で第253号となりました。現在は、編集・印刷を新潟県視覚障害者福祉協会が担当していますが、点字印刷が普及していなかった昭和の時代は、当校で点字印刷され配付されていました。亜鉛板を二つ折りにし製版機で点字を打ちます。折られた亜鉛板の間に点字紙を挟み点字印刷機と呼ばれる2つのローラーの間を通すと点字が打ち出される仕組みです。その後、広報は「県民だより」となり、平成4年(1992)には点字版とともに音声版の「ボイスにいがた」も発行されるようになりました。当校は毎号「教育の窓」欄に新潟盲学校の様子や児童生徒の作文などを掲載しています。
3 全国盲学生短歌コンクール
コンクールは、岐阜盲学校高等部生徒会の主催で実施され、平成26年度で第58回を迎えます。目的は、短歌を通じて豊かな感性を育て、同じ境遇におかれた盲学生相互の心の交流を図ることです。全国盲学校の児童生徒からたくさんの応募があります。新潟県視覚障害者福祉協会では、例年秋に視覚障害者文化祭が開催され、その場で俳句・短歌の表彰がおこなわれています。今年で64回を迎えますが、伝統を築いたのは全国盲学校の教育です。当校も例外ではなく、戦前から俳句・短歌の指導に力を入れ、盛んに詠まれました。昭和30年代の当校「PTAだより」にも生徒や職員の作品が掲載されています。
<スポーツ>
4 グランドソフトボール(盲人野球)
盲学校でおこなわれる野球、現在のグランドソフトボールのルーツについては、よく分かっていません。伝えられているところによると、昭和の初め頃(1926頃)今から約90年前、すでに各地の盲学校の体育の時間や放課後に行われていたようです。ただし、当時野球は、今のようにしっかりルールがあるものでなく「投げて、転がす」単純な遊びに近い野球だったようです。その後、改良され現在のルールに近いものとなりましたが、第二次大戦で中断します。戦後、盲学校生の間にも野球熱が高まり、昭和26年(1951)7月点字毎日創刊30周年を記念して、第1回全国盲学校野球大会が大阪府立盲学校グランドで開催されました。昭和42年から平成8年まで中断されましたが平成9年から再開され、平成18年度第21回の新潟大会を数えるまでになり、ルールも整備されました。こうして盲学校を中心として行われていた盲人野球は、盲学校の生徒だけでなく、卒業生にも浸透し、国体後に開催される全国障害者スポーツ大会の正式
種目となり、各地において社会人チームが結成され、地区大会が開催されるようになりました。このように盲学校が築き上げてきた伝統を、これからも継承してほしいものです。
5 柔 道
わが国発祥の柔道や相撲は、盲学校では大正時代から遊びとして取り入れられていました。競技としては、昭和30年代から盲学校で指導されてからです。戦後、中学校で武道が授業で取り上げられるようになり盛んになりました。当校でも昭和30年代から課外活動として「柔道部」が創部され、北信越盲学校柔道大会で幾度も優勝しています。現在は、中高等部の体育授業で柔道の指導がおこなわれていますが、残念なことに北信越盲学校柔道大会は出場者減少により平成17年度で中断しています。盲学校での柔道経験をもとに、日本視覚障害者柔道連盟が主催する全国大会が毎年開催され、国際大会ではパラリンピックの競技種目となっています。視覚障害者柔道の特色は、競技規則で試合開始時(再開時含)に、対戦者同士が向かい合い、片手を相手の柔道着の袖、もう片手を反対側の襟をつかんでいることと、主審の始めの合図があるまで動くことが許されないことです。
6 盲学校から始まった競技
盲学校で考案され、改良された運動競技はたくさんありますが、紙面の都合で一部を紹介します。
(1)フロアバレーボール(盲人バレーボール) 北信越地区盲学校大会有
(2)サウンドテーブルテニス(盲人卓球) 北信越地区盲学校大会有
(3)全国盲学校通信陸上競技大会(単独・音源走、幅跳び、投てき競技)
(4)マラソン 日本盲人マラソン協会による各地の開催
(5)その他 現在、一部の盲学校でおこなわれているスポーツ
ゴールボール、ブラインドサッカー、ブラインドテニス、スキー
1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
@新潟県立新潟盲学校
http://www.niigatamou.nein.ed.jp/index.html
今回は、新潟県立新潟盲学校の小西明校長先生に、新潟盲学校が視覚障害児者の教育を担うと共に、福祉、労働、文化の牽引役として果たしてきた内容を時系列で紹介し、今後の盲学校(視覚特別支援学校)の在り方を展望して頂きました。
膨大な資料を基に時間いっぱいの講演でした。長い歴史の中で盲学校の果たしてきたお仕事を拝聴し、まさに盲学校が我が国の視覚リハビリテーションの一翼を担ってきたのだということを理解しました。
小西先生の益々のご活躍を祈念致します。
追記 小西先生は、前回平成24年1月は新潟盲学校の学校要覧をもとに、在籍者数、教職員数、眼疾患、教育内容、学校行事等について概観して下さいました。
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参考 報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3324