【シンポジストから-1】  竹熊有可(新潟盲学校)  私は、25歳の時転勤で東京へ転居したのを機に、国立身体障害者リハビリテーションセンター病院で生 活訓練を受けました。訓練の内容は、白杖歩行、点字の読み書き、音声パソコン、拡大読書器や単眼鏡の 使い方などです。  リハセンターの生活訓練の特色は、面談に多くの時間をかけるということでした。技術的な訓練の前後 に、生活訓練専門職の先生が、ゆっくりと時間をかけて、私の日常生活、職場や趣味のこと、今後どうし ていきたいかなど、ていねいに聞き取り、展望が開けるような具体的なアドバイスをしてくださいまし た。  また、眼科の患者会を作らないかと声をかけていただき、眼科で生活訓練を受けているロービジョン患 者の会を設立しました。横のつながりができたことで、お互いに励ましあい、よいアイデアを共有するこ とができました。この患者会の設立後、ドクターからお話があり、日本網膜色素変性症協会の設立へとつ ながっていきました。十分な社会経験のないまま視力が低下した私にとっては、「仲間作り」は、重要な 心のケアの一つだったと思います。  今も当時の仲間とはよいお付き合いをしており、先に鍼灸の世界に入った先輩たちから、盲学校での学 びを応援してもらっています。  竹熊有可 略歴   1967年 新潟県加茂市生まれ   1990年 お茶の水女子大学文教育学部哲学科卒業   同年11月 小野塚印刷株式会社入社   1992年 網膜色素変性症により障害者手帳2種5級取得   1994年 日本網膜色素変性症協会(JRPS)設立、会長就任     同年 結婚   1995年 小野塚印刷を退社   1996年 長女出産   1999年 鬱病発症   2000年 日本網膜色素変性症協会 会長を退任     同年 株式会社加賀田組入社   2001年 加賀田組を退社   2002年 障害者手帳1種1級   2009年 新潟盲学校専攻科理療科に入学 【シンポジストから-2】  小島紀代子(視覚障害リハビリテーション外来・NPO法人オアシス)  目が不自由になり、何もできなくなった自分に失望し、人生を終わらせたいと思う方が半数以上います。  1994年に開設された「視覚障害リハビリ外来」は、悩みや困ることの問いかけと傾聴からはじまり ます。その方たちへの「光」は、道具や情報だったり、ちょっとした工夫や知恵、人とのつながりや考え 方だったりします。何も出来ないと思い込んでいる人に、ひとつでも、できる手ごたえを感じてもらえた 時、大きな希望につながります。  また、外来と連携した「教室」や「講習会」で、「自分だけではない、同じように苦しんでいる人もい る。」にもかかわらず、なぜか明るく生きている目の不自由な人たちに驚き、こころも体も変化していき ます。  私たちの行っている「こころのケア」は、直接的なケアとして、1.視覚障害リハビリテーション外来  2.グループセラピー 3.なんでも相談室 4.電話相談があります。  間接的なケアとして、1.音声パソコン教室 2.化粧教室 3.調理教室 4.歩行講習会 5.サ マースクール、学校訪問、看護学生の実習受け入れなどがあります。  以上の活動の実際を「こころのケア」の観点から紹介させていただき、現状の問題点の検討(精神科と の連携、移動・歩行の問題、家族との葛藤など)、また、まだ閉じこもっている人は、どうすれば出てき てもらえるのか、障害を抱えても、地域で生き生きした生活が営める社会にするには?を、皆さんと一緒 に考えたいと思っています。    小島紀代子 略歴   新潟市に生まれる。   1962年 新潟県立新潟中央高校卒   1983年 新潟市社会事業協会信楽園病院総務課勤務 現在嘱託職員   1994年 信楽園病院視覚障害リハビリ外来 嘱託員   1995年 新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会事務局員   2001年 新潟いのちの電話 認定相談員 現在休部   2007年 NPO法人障害者自立支援センターオアシス事務局員         電話相談・こころの相談室相談員  【シンポジストから-3】  稲垣 吉彦(有限会社アットイーズ 取締役社長)   私自身が見えなくなった当初のことを思い起こすと、元通りに見えるようにはならない現実を突きつけら れた時点で、まず今まで当たり前に有していた視力という能力を失う喪失感を感じ、同時に「なぜ自分だけ が・・・」という怒りを覚えました。そして少し現実に引き戻されると、これからどうやって生きていけば いいのかという不安感を感じ、さらに見えていた経験があるが故に見えない自分の無様な姿を世間にさらし たくないというある種の羞恥心も芽生え、結果として自宅に引きこもる傾向が強くなったように思います。 そして絶望感を感じ死を意識する・・・。これら一連の感覚は、私だけではなく、私が今までお会いしてき た多くの中途視覚障害者のみなさまにも共通している点でした。  「目だけの病気で、死に至る病気はない」とある眼科医の先生からお伺いしたことがあります。ところが 現実的には、人生半ばで視覚に障害を負った多くの人たちは、前述のように必ず一度は自殺を考えます。 ここまで思い詰めてしまう原因は、目の病気そのものというよりも、むしろ視覚に障害を負ったことによる 精神的な病に起因する部分が大きいのではないでしょうか。だとすると、まず第一にこの心の病を治さなけ れば、その後の人生は何も始まりません。  私は一人のロービジョン患者として、正に今回のシンポジウムのテーマである「ロービジョンケアは心の ケアから」を実感している一人です。 略歴:稲垣 吉彦(いながき よしひこ)  1964年 千葉県出身  1988年 明治大学政治経済学部経済学科卒業後、株式会社京葉銀行入行。  1996年 「原田氏病」という「ぶどう膜炎」で視覚障害になったのを   きっかけに同行を退職し、筑波技術短期大学情報処理学科へ入学。     卒業後、株式会社ラビットで業務全般の管理、企業・団体向けの  営業を担当。     杏林大学病院、東京大学医学部付属病院、国立病院東京医療センターのロービジョン外来開設時に、 パソコン導入コンサルティングを行う。  2005年 株式会社ラビット退職。  2006年 有限会社アットイーズ設立。同年8月に「見えなくなってはじめに読む本」を出版。  現在、視覚障害者向け情報補償機器の販売・サポートを行う会社を経営する傍ら、個人的には医療期間や 福祉施設からの紹介を受けて、ボランティアでロービジョン患者に対するカウンセリングを行っている。 【シンポジストから-4】  西脇 友紀(もり眼科医院;視能訓練士)  ロービジョンケアでは、現存する視機能を最大限に活用し、場合によっては他の感覚も使って、生活機能の 向上を図ります。例えば、わざと目をそらして物を見る練習や、これまで使ったことのない用具の使用法の習 得といった、新しい動作や行動を生活の中に取り込む作業を行います。その作業には少なからず心理的な負担 を伴いますが、自身が今よりも快適な生活を送りたいという「生活意欲」がそれを後押しします。  しかし、誰もが常に意欲に満ちた状態にあるわけではありません。見えにくさによって突きつけられる現実、 その現実に向き合ったときの不安や焦り、孤独感といったもので、心が弱くなっている場合もあります。  ロービジョンケアを提供する際は、その人の心がどのような状況にあるかを判断することが大切ですが、そ れは決して容易にできることではありません。現在、視能訓練士がロービジョンケアを担当している施設は多 くありますし、私自身も携わってきましたが、果たして私たち視能訓練士はその担い手たりうるでしょうか。 というのは、視能訓練士にとって視機能に関する内容は職能範疇といえますが、心の問題に対応するために必 要な「技術」を持ち合わせていない場合がほとんどではないかと思われるからです。  シンポジウムでは、こうしたことを踏まえて、ロービジョンケアにおいて視能訓練士が果たすべき役割につ いて、また心の問題に対する姿勢について、私見を述べたいと思います。 略歴  1998年3月 国立小児病院附属視能訓練学院卒業    同年4月 杏林大学医学部付属病院眼科  1999年1月 杏林アイセンター ロービジョンルーム  2002年4月 杏林大学医学研究生(〜07年3月)    2005年10月 もり眼科医院  2007年5月 NPO法人障害者自立支援センターオアシス           視覚障害者のためのリハビリテーション外来 【シンポジストからー5】 高林 雅子(順天堂大学;心理カウンセラー)  障害や疾病を持つことは、その人の生活の様々な側面に大きな影響を与える。  視力や視野を失うということは、単に重要な身体機能の喪失というだけではなく、大きな心理的変化、 すなわち不安や怒りなどの心理的葛藤や、将来への不安、経済的不安、家族や周囲の人々との役割変化・ 関係性の緊張などを生じさせる。そして進行という時間軸によっても心理状況は変化していく。同じ疾患 でも、残存視機能や進行の程度には個人差があり、年齢、家族構成、職業も様々である。しかし、喪失体 験によって引き起こされる様々な感情は、すべての患者に起こるものである。  そのため不便な視機能を補うためだけのロービジョンケアでは患者の支援は不十分といえる。患者自身 が自分の力で生活上の様々な困難を乗り越えその人らしい生き方ができるためには、支援の視点を、身体 の部分的な機能だけでなく、その人全体として捉え、その人が生きていく上で、どのような問題があるの か、どのような可能性があるのか、何が必要であるのか、患者・家族とともに考えるプロセスが重要であ ると考える。  このようなプロセスにおいて、家族関係への支援や社会資源へアクセスが困難な場合の働きかけなど、 心理支援の役割と可能性について論じてみたい。  略歴 高林 雅子   1982年  東京女子大学文理学部卒業   2000年  東洋英和女学院大学大学院人間科学研究科卒業   2004年  順天堂大学大学院医学研究科博士課程修了 医学博士(順天堂大学)   2004年  順天堂大学眼科学教室非常勤講師、          立教大学兼任講師(リハビリテーション心理学) 現在に至る   2009年より水戸医療センター眼科ロービジョン外来、相談スタッフも兼任   主な著書「中途視覚障害者のストレスと心理臨床」(共著)など 【シンポジストからー6】 内山 博貴(福祉介護士)  左目に自打球を当て、視力が完全に戻らないと言われた時、「普通の生活は送れないのでは?」「就職 はできないのでは?」と暗い未来しか想像できない状態でした。  手術が終わると同室の方が、私は頼んでいないのに看護師さんを二人くらい集め、私の進路について病 室でワイワイ話したり、看護師さんは、「目の勉強してみる?高校じゃ習わないでしょ?」と本を貸して くれたりしました。  そんな何気ない入院生活でも私にはとても和やかで、凄く居心地のいいものでした。落ち込んでいた私 を前向きにしてくれる貴重な時間で、目の怪我という現実を受け入れるきっかけなりました。  略歴 内山 博貴   2001年 夏の全国高校野球新潟県予選で、自打球を目に当て(外傷性黄斑円孔)         済生会新潟第二病院に約1ヶ月半入院し、二度手術を受ける。   2004年 福祉専門学校を卒業後、地元の福祉施設に勤める。 【新潟盲学校の紹介】 田中宏幸(新潟盲学校教論)  当校は県内で唯一の視覚障害教育専門機関であり、今年度は全校で53名の幼児児童生徒が在籍してい ます。創立百周年を節目として、これまでの視覚障害教育における伝統・専門性を継承しながら特別支援 教育推進のため、個々のニーズに即した教育を推進しているところです。  「学校教育法」の一部改正から3年目を迎え、視覚障害教育の相談支援センター校として、県内全域の 目や見え方に心配のある方々への相談・支援を積極的に展開するために、次のような活動を行っていま す。  (1)新潟・長岡・上越での巡回教育相談会、村上・佐渡地域での地域支援セミナー(研修会)の開 催。  (2)視覚に障害のあるお子さんの教育に携わる方々を対象とした視覚障害教育担当者ネットワーク協 議会の開催。  (3)乳幼児の親子教室、小中学生の学習支援教室を開催し、継続的な教育相談支援の実施。  (4)サマースクール、盲学校を知っていただく会の開催を通じて視覚障害教育への理解啓発。  医療・福祉・教育関係機関等と連携しながら、一層の相談支援事業の充実を図っていくことで目や見え 方に心配のある方々へのお力になれればと考えています。 【盲学校に入学して】 竹熊有可(新潟盲学校専攻科理療科1年)  この四月から、新潟盲学校で鍼灸マッサージの国家試験を目指して勉強することとなりました。  入学して何よりも驚いたのは、盲学校の体制が非常に充実していることです。施設設備、先生方の配 置、カリキュラムなど、視覚障害者が勉強するために必要な支援が全て受けられます。この充実した体制 を勝ち取ってきた先人の努力に思いを馳せ、恵まれた環境の中で勉強できることを本当に幸いに思いま す。  視覚障害者10万人、網膜色素変性症患者3万人といわれていますが、全国の盲学校の生徒を合わせても 数百人という数字だそうです。私自身、障害者手帳を取得してから16年経ってようやく盲学校への進学を 決断したわけですが、これだけの社会資源、これだけのチャンスを、多くの視覚障害者が利用していない という事実を、本当にもったいないことだと思います。  視力が低下し始め、挫折感を覚えていた大学時代をもう一度取り戻しているようで、学ぶ喜びを心いっ ぱいに感じる毎日です。