済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わり にお読み頂けましたら幸いです 報告:第220回(14‐06月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  演題:「生きていてよかった!」  講師:上林洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長)   日時:平成26年6月11日(水)16:30 〜 18:00    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  http://andonoburo.net/on/2848 【講演要旨】  「命を断とう」と思ったことがあるからこそ「生きていてよかった!」と思えるの です。  体操が苦手、音楽も苦手、人の前で話すことなど全くダメ…幼いころの私でした。 中学の科学の実験の時に、キラッと光ったビーカーの周りに虹が見えたので、「きれ いな虹」と言ったら友達に笑われました。多分これが緑内障の初期だったと思いま す。  中学卒業した年に、緑内障の手術を受け、看護婦の夢を断たれ、親に有無なく新潟 盲学校に入学させられたのでした。ここでの5年間が、消極的だった私の生き方を、 変えてくれたのだと思います。視力があるということで、買い物や、学校行事、生徒 会でも役が与えられ、人のためになれる喜びを実感することにより、自分に対しても 自信が持てるようになりました。  社会人になって間もなく再発。手術を繰り返すたびに「手術は成功しました」と医 師に言われるのですが、私としては「見えにくく」なる一方でした。こんな折、手術 の前夜に夫から「見える眼と結婚するのではない」と言われ、共に歩むことを決意し ました。出産後も手術を繰り返しながら視力は下がるばかりでした。  39歳、激しい眼痛に耐えられず入院した私に、夫は眼球摘出を勧めたのです。眼 科主治医・両家の家族が集まり、治療法について相談会を持ちましたが「健康が第 一」と言う夫に従い、両眼摘出の手術を受けました。この時「死ぬ」ということを決 めていたのです。眼は心の窓、目は顔の中心、その目がなくなるなんて・・・そし て、患者から一視覚障碍者になることのむなしさ…。  2〜3カ月後、この日こそ最後だと決め、台所の掃除をしていました。「飯はまだ か?」と言った夫に力いっぱい雑巾を投げつけました。「いつまでばかやっているん だ」とかえってきた静かな声。この一言が私を新たなスタートに立たせてくれたので した。「そうだ!命ある限り生き抜かねば」と。  それからは夫の力を借りながらいろいろなことに挑戦しました。例えば、あきらめ ていた点字の読み書き、小、中学校で視覚障害についてのお話し会、点字ワープロの 会得、喜怒哀楽を三十一文字に託す短歌…。そして、盲導犬との出会いにより広がっ た世界。山登りの楽しさ、などなど。どれをあげても苦労の後には「喜び」が待って います。この達成感を味わったときに、決まって「生きていてよかった!」と心の中 で叫ばずにはいられないのです。    かちゃかちゃと義眼の触れ合う音のして吾の眼(まなこ)の選ばれている   「年相応な眼にしてくださいね、でも、ちょっぴりかわいく…」    半世紀近くも営業してきた治療院をこの春に閉じ、これからは第3の人生を夫と盲 導犬と楽しみながら、ゆったりと、そして「可能性」を忘れずに暮らして参りたいと 思っております。  子と嫁は一つのスマホを見詰めつつ生れくる男の子(おのこ)の名を語りいる  「お母さん、ちょっと見て」そっとお腹に、確かに大きなお腹。新しい命をそっと 撫でてあげました。 【略歴】  京ヶ瀬小学校、京ヶ瀬中学校卒(阿賀野市)  神奈川県内の准看護婦養成所を緑内障発病にて中退  昭和42年、新潟盲学校専攻科卒  昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚  二児出産後、数回の手術の後、四十歳には完全に失明  このころから音声ワープロをマスターし、短歌を詠む楽しさを覚える  平成7年、北海道盲導犬協会に入所し盲動犬ユーザーとなり現在に至っている 【後記】  上林さんの優しい語り口調に吸い込まれ、心地良い感覚でお聞きしました。  「生きていてよかった」ここに、上林さんの人生が集約されているのが、講演を拝 聴してよく理解することが出来ました。幾多の苦難を乗り越えて、自らの精一杯の努 力と、本気でぶつかり合いながらで築き上げた、多くの理解と愛情の中で、今を生き 抜いている。。。。  今後は、上林さんの知識と経験、そしてこの明るさを伴うエネルギーを多くの方々 に、短歌を交えながら素敵に語って伝え広めて頂きたいと期待しています。