済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。参加できない方も、近況報告の代わり にお読み頂けましたら幸いです 報告:第219回(14‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 演題:「視覚障がい者支援センター・ひかりの森 過去・現在・未来    〜地域生活支援の拠点として」 講師:松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長)  日時:平成26年5月14日(水)16:30〜18:00  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 http://andonoburo.net/on/2775 【講演要旨】  「ひかりの森」を振り返ると、それは希望に満ちた時であり、それよりずっと以前 からの私の未来でもありました。  成人式を終えてまもなくの頃、私は気になっていた目について診てもらわなければ と、F市立中央病院の眼科を受診しました。「網膜色素変性症で治る見込みはありま せん。5年で見えなくなるかもしれない。結婚はしない方がいいし、出産して見えな くなった人もいますよ」暗室の中での魔の告知でした。  その当時は、私には普通に生活できる昼間の視力がありましたし、希望に胸膨らむ 青春でしたから、魔の告知にはひるまず、自分の意思こそを尊重することに決めまし た。証券会社に就職し、普通に日常の生活を送り結婚もしました。二人の子どもを出 産したのですが、目に影響はありませんでした。あの時のドクターの言葉は一体なん だったのでしょうか…。この経験から、自分のことは自分で守るということを信条と しています。  子育てが一段落すると、病院めぐりを繰り返し、様々な検査や薬を試してみまし た。いよいよ色の識別ができなくなった40代半ば、国立リハビリテーション病院を 受診しました。「どんなことに困っていますか?」この様な問いかけは初めてでし た。(そうか、困っていることを人に話してもいいんだ!)このことが、ロービィ ジョンケアの始まりとなりました。魔の告知から50年近く経た現在でも、さまざま な心無い言葉に悩み続けている人達からの電話相談があります。  1995年、JRPS埼玉支部の立ち上げに関わり、副会長として広報や相談支援 に励みました。ところが、ホームから転落して大怪我、次いで工事現場に転落し、く も膜下出血を起こし、殆どの視力を失ってしまいました。50歳を迎えていました し、失明するかもしれないという覚悟はしていたものの、ついにこの時が来てしまっ たという失望感と落ち込みは、たとえようのない物でした。絶望、孤立、自殺へと追 い込んで行く自分自身に疲れ果ててゆくだけの日々でした。  自分の全てを失いそうになった時、救って下さったのは、近所に住んでいる朗読ボ ランティアの女性でした。2001年、市内に「ロービジョン友の会アリス」を設 立。ボランティアをする、される関係を超えた共生のスタイルでイベントの開催や、 学校ボランティアにも出かけて行きました。色々な才能を持った方々の集い友の会 は、成長し、遂に拠点を持つことへと動き出しました。  2006年、「心身障害者デイケア施設 ひかりの森」を市内に開設。自分たちの 拠点を自分たちの手で勝ち得た喜びをかみ締めました。当所は、10名の利用者でし たが、不安を抱きながらも希望に燃えていました。まず、自立訓練をと、移動訓練、 音声パソコンそして調理実習から始めました。福祉経験の無いスタッフは、外部専門 者から指導や研修を受け、丁寧に利用者に対応しながら、実績を重ねてきました。利 用者のニーズに合わせたメニューを取り入れ、活発に活動を展開することで利用者も 増員。見学や体験やボランティアで関わる人も増えてゆきました。一方、外部に向け ての情報発信にも力を入れ、電話相談や来談者も増えました。  2010年、「NPO法人 視覚障がい者支援協会」を設立。市民活動団体にも積 極的に参入し連携しながら理解を求め、地域資源では、フェアや点字教室を開催し て、広く市民の方々と交流を持っています。ひかりの森で社会性や自立力を付けて、 一人ひとりの利用者が生活の基盤であるコミュニティに参加出来る様、支援の輪を広 げています。体験者も多く受け入れ、更に他施設の生活リハを希望する人への中間施 設としての役割も担っています。就労を希望する利用者には、必要な支援策を講じ、 エクセルやワードの操作にも力を入れ支援しています。すでに2人の女性の就職が決 まりました。  送られてきた名刺に点字を打ち込む点字名刺の作業は7年目を迎えて、作業力も アップしています。越谷市の伝統文化「籠染めの浴衣地」でバラの花を作る「浴衣の 花グループ」では、商品化を目指しています。この春、ひかりの森の利用者は、49 名に膨らみました。  今日と違う明日の現実とどう取り組んでゆくのか。ひかりの森の現場の課題です。 ひかりの森の未来図は、決して夢や理想だけでは語る事が出来ません。 【略歴】  松田和子(NPO法人視覚障がい者支援協会・ひかりの森 理事長)  1995年 JRPS埼玉支部の立ち上げに関り、副会長  1996年 網膜色素変性症と事故により殆どの視力を失う  2001年 ロービジョン友の会アリスの設立 会長  2006年 身体障がい者デイケア施設・ひかりの森 施設長      越谷市障がい者施策推進協議員  2010年 越谷市委託事業の地域活動支援センター ひかりの森 施設長  2010年〜NPO法人 視覚障がい者支援協会・ひかりの森 理事長 NPO法人 視覚障がい者支援協会・ひかりの森 http://npo-hikarinomori.com/ 【後記】  埼玉県越谷市から松田和子さんをお招きしての勉強会でした。松田さんは、とにか く前向きで、優しくて、思いやりがあり、思慮深く、品のある方でした。  講演の中に、いくつも心に残るフレーズがありました。  ●21歳の時に、網膜色素変性と診断された。その時の医師に、「5年で失明する。結 婚はしない方がいい。子どもも作らない方がいい」と言われた。 ●プロポーズされた時、「将来失明するかもしれない」とカミングアウトした。そし たら「お手伝いさんになってもらう積もりはない」と言われて結婚した。 ●二人の子供を出産。それでも目には影響はなかった。あの時のドクターの言葉は何 だったんだろうか?この経験から、「自分のことは自分で守る」ということを信条と している。 ●40歳代半ばで色の識別が出来なくなって、国リハを受診。「どんなことに困ってい ますか?」と聞かれた。このような質問はこれまで受けたことがなかった。そうか 困っていることを人に話していいんだ!このことがロービジョンケアの始まりだっ た。  講演後の討論も充実していました。「視覚障害者の松田和子ではありません。視覚 障害というリュックを背負った松田です」「せっかく視覚障害になったのだから、楽 しまねば、、、」「ボランティアとの関係 やってくれる人/やってもらう人ではな く、一緒に楽しむ」「苦労は多い。でも大変さの中にこそ、学ぶものがある」「明る いことは重要」  今後も松田和子さん、そして「ひかりの会」を応援していきたいと思います。